じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 2020年12月のウォーキング総括。2020年12月は、総歩数26万3885歩、1日あたり8796歩となり、前月11月の8615歩、前々月10月の8548歩をやや上回った。
 グラフはいつもの通り、毎日の歩数を少ない順に左から並べたもの。左端の落ち込みは、その月に何らかの事情で歩数が少なかった日があることを示す。右端はその月に最も多く歩いた日の歩数。グラフが水平であればあるほど、日々の歩数がほぼ安定していたことを意味する。
 12月は、1日だけ歩数が8000歩に足りない(=79144歩)日があった。これはウォーキングから帰宅した時点で、すでに8000歩を超えているという思い込みがあり、歩数計をチェックしなかったことによるミスである。気づいていれば8000歩を超えるまで家の中を歩き回っていたはずだった。
 半田山植物園の入場回数は24回、1月1日からの累計で265回となり、2019年の185回を大幅に上回った。 新型コロナの影響で旅行に出かけなかったことが増加要因となったが、半田山植物園自体が臨時休園となり入場できない期間もあった。

2021年1月1日(金)




【小さな話題】過去20年の「新年の抱負・所感」を振り返る

 このWeb日記は1997年から執筆しており、正月旅行に出かけた年を除いて毎年、年の初めの日記に「新年の抱負」を書いている。今年の元日の特徴は、なんと言っても帰省を取りやめたことだ。義母、子どもたち、孫たちに会えないのは寂しいが、いつも通りの環境で規則正しい生活ができるというメリットもある。じっさい、大晦日の夜はいつもと全く変わらない時刻に就寝し【←例年通り、紅白等はいっさい視ない】、元日の朝は5時過ぎに自然に目が覚めた。

 さて、過去の「新年の抱負や所感」を辿ってみると、毎年同じ事ばかり書いているように見えても少しずつ変化が生じていることに気づく。
  • 【2001年】「手間を省く」から「質の高い手間をかける」時代へ
    「手間の価値を見直そう。そしてスキルを上達させ手間の質を高めることに精魂を傾けていこう。21世紀はそういう時代になると私は期待する。」

  • 【2002年】10000年後の世の中を予想する
    「10000年後」というのは二進法表記のことであり、じっさいは16年後の2020年を予想したもの。全く見当外れの予想もあったが、けっこう当たっているようにも見える。
  • 【2006年】新年の抱負
    • 正月から規則正しい生活を続けるよう心がけている。岡山に戻ったら再び、早朝と夕食前の散歩を欠かさず続け、徒歩出勤を励行したいと思っている。
    • 年1〜2回の海外トレッキングも、それ自体が楽しみであると同時に、それを目標にして日々、トレーニングに励むことが結果的に健康増進につながる。
    • 私が目ざしているのはあくまで「行動随伴性による人間理解と、その応用」である。
  • 【2007年】新年の抱負
    • この年齢になるとまずは健康管理。そのためには、規則的な生活のリズムを守ることが大切であると思う。
    • 「離脱理論」についてももう少し理解を深めたいと思っている。
  • 【2009年】新年の抱負
    • 今年も、まずは健康管理である。生活習慣病防止のために、従来より徒歩通勤、早朝と夕食後の散歩などに心がけ、また、昨年は特に年間50回の山登りを達成したところであったが、今年も同じスタイルで健康管理に励みたいと思っている。
    • 今年から特に気をつけようと思っているのは事故防止である。
    • 個人と環境との関わりを「複雑系」としてとらえ、単線的な因果観ではなく、全人的・長期的な視点で、生きがいや働きがいや死生観といった問題にどのような心理学的アプローチが可能であるか考えてみたいと思う。
  • 【2012年】人間はしょせん、種々の行動の花束
    枯葉で作る私の人生のカタチに基づいた所感。
  • 【2013年】時間の流れを直線的に進む人生から、時計の針が回るような四季循環型の人生へ
    不可逆の時間の流れを直線的に進む人生から、時計の針が回るような四季循環型の人生(そして、年が明けても再びその針が動き続けることを喜べるような)に変わっていくものと思う。
  • 【2014年】これからの人生は、活動の束モデルで
    • 人生は、いくつかの活動の束から構成される。
    • それらの活動の束は相互に連携する部分もあるが、基本的には独立しており、1つの束が途切れたからといって、他の束が致命的なダメージを受けるわけではない。
    • 活動の束の終わりには、達成型もあれば、断念型もある。
  • 【2015年】新年の抱負
    • 現在継続中の複数の「活動の束」の進捗状況を点検し、今後1年間の見通しを立て、実行する。
    • 継続が困難、もしくは意義が認められなくなった「活動の束」については早々に打ち切る。
    • 必要に応じて新たな「活動の束」があれば開始する。
    • 私個人の場合は、3年後の定年退職のほか、老化に伴う体力的、知的能力の衰えに対処するためにも、これから先の活動の束は大幅に取り替えていく必要がある。
  • 【2016年】新年の抱負
    新たな体験・発見につながる活動、刹那的な楽しみ、社会的貢献、ごく普通の当たり前の日常生活を続けていく活動、について考察した。
  • 【2017年】新年の雑感と抱負
    定年退職まではとうとうあと1年3ヶ月となり、期限内にできることがさらに限られてきた。実質的には2017年が現役最後の年となり、2018年1月からは、書籍や書類の整理と廃棄に追われることになると思う。
  • 【2018年】新年の抱負
    これから先の人生は、世間とは一定の距離を置きつつ、可能な限り、世間に頼らない生き方を目ざしていきたいとは思っている。世間に対する基本姿勢は、「世間とは、それほど暖かいものではないし、それほど冷たいものでもない」ということである。よく、「世間は私のために何もしてくれない」とか、人間不信とかを口にする人がいるが、そういう考えは、世間に過剰に期待しているから生じるものである。そういうことを期待しなければ、不信をいだくわけがない。といって、世間は敵でもない。自分をとりまくローカルな環境の中で、ある程度は貢献し、相手を敬う気持ちで接していく限りにおいては、いろいろとお世話になることもあるはずで、せっかく手を差しのべてもらった時には、それを素直に受け入れればよいかとは思う。
  • 【2019年】新年の抱負
     現役時代は、そのうちヒマができたらやろうと思っていたことは全部、退職後に先延ばししていたが、隠居人となった今、これ以上延ばすことのできる時期はない。あるとすれば「死ぬまでにはやっておこう」という人生最後の締め切りのみである。
     先延ばしができないことから、死ぬまでの限られた時間を無駄に過ごしたくないという気持ちがある。例えば、ネットで提供されている単純なゲームなどは、脳トレとして有用でない限りは遊ぶ気になれない。テレビ番組も食事時以外では殆ど視なくなった。
     そう言えば、だいぶ昔、中古のリクライニングチェアや、ベランダで昼寝ができるような折りたたみ式の長椅子を買ったが、定年後に時間的ゆとりができたにも関わらず一度も座ったことはない。せっかちな私は、どうやら死ぬまで、駆け込み型のライフスタイル、つまり、できることがあれば、できるうちにそれを優先してやっておこうとするタイプのようである。
    1. できる時に、できることをする。
    2. できなくなった時には、新しくできることを見つけて、1.に戻る。
    が基本になりそうだ。
  • 【2020年】新年の所感
    • じぶんというのは別段、この人類の中で特別の存在でも何でもない、地球上の生命体の1つに過ぎないということである。「じぶん」というのは視点の取り方から生じる特殊な感情であってそれ以上でもそれ以下でもない。また、「じぶん」が唯一無二の固有の存在であるように見えるのは、生まれてからのヒストリーがそうなっているからにすぎない。
    • じぶんが地球上の生命体の1つに過ぎないからといって、ちっぽけで取るに足らない存在であることにはならない。きわめて自己満足的になるが、人生を振り返ってみて「それなりに頑張ってきた」と感じられれそれでよし。死神とかくれんぼして、死神から「もういいかい?」と言われた時に「もういいよ」と返事できる程度の充足感があれば、生に執着することも無かろうと思う。
    • 1つは、衰えの程度に合わせて、興味対象を減らしていくということだ。そういう意味では「補償を伴う選択的最適化(selective optimization with compensation=SOC)」という発想は大切かと思う。
    • 「いま、ここ」を生きることも大切だが、高齢者の場合は、過去の良き思い出に浸る機会や、(身体的に困難があっても参加できるような)バーチャルな世界で新たな体験を重ねる機会があってもよいのではないかと思う。


 さて、2021年の新年の所感だが、少し前に書いた「じぶんは寄生虫論」について、それでよいものかどうか、もう少し考えていきたいと思っている。
 リンク先にも書いたように、「じぶんは寄生虫論」というのは、単に、自分自身の精神活動と肉体との関係を示したメタファーであって、二元論やホムンクルスとは全く違う。政府を「じぶん」、国民を「自分の肉体」に喩えるならば、どんなに強い政府であっても国民の全生活を支配することはできない。それと同じように、「じぶん」なるものは、自分の肉体のすべてを支配するほど強大ではない。体の片隅に潜む寄生虫程度のそんざいに過ぎないというのが、このメタファーで言いたいところである。もっとも、寄生虫と言っても、駆除されてしまっては体は成り立たない。ま、生命活動を支える腸内細菌と同じようなものと言ったほうがよいかもしれない。
 2014年頃に書いた「人生は活動の束」論は今でも撤回していないが、当時はまだ、加齢に伴う衰えや病気について深く考えたことはなかった。最近は、記憶力、髪の毛、視力、歯ぐき、体力、足腰など、肉体のさまざまな面で衰えが出てきており、また、いつなんどき、病気に罹ってしまうか分からない状況にある。そういう中にあって、じぶんというものをできる限り小さな存在として位置づけようというのが「じぶんは寄生虫論」の趣旨でもある。