謹賀新年

じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 2016年は申年ということなので、昨年掲載した写真の中からサルに関係のありそうな画像を選んでみた。
  • 写真左上:岡山駅前の桃太郎像。ここのサルは不自然なポーズで二足歩行しており、サルというよりは猿人が歩いているように見える。
  • 写真右上:山陽道道口SA下り線にある桃太郎の石像。
  • 写真下:岡大図書館の「サルトフロレスタ」。猿とは直接関係ないが「猿と風呂レス多」という語呂合わせだと覚えやすい。なお、「サルト」は和製英語・ドイツ語の「ムーンサルト(MoonSalto)」に由来すると聞いたことがあるが、この場所には体操競技設備があるわけではない。

2016年01月01日(金)


【思ったこと】
160101(金)新年の抱負

 今年の元日は平常通り朝5時半に起床。12月上旬の目まい発生以来中止していた朝の腹筋運動(30回)を再開してみたが、特にふらつくこともなく、まずは健康的な朝となった。なお、目まい・ふらつきは数日前からほぼ消失しているが、まだまだ薬の服用を続けているため完治とはいえない。

 そんなこともあって、新年の抱負の第一は、やはり、健康の保持である。これまで、生活習慣病予防に重点をおいていたが、肥満、体脂肪、悪玉コレステロールといった指標ばかりでなく、目、耳(聴覚と平衡感覚)、歯茎、などにも注意を払う必要が出てきた。

 上記とも関連するが、健幸ポイントの推奨値である1日平均1万2000歩(うち、「しっかり歩数」6000歩前後)は今後も維持していきたいと思う。

 それ以外の抱負は昨年の元日とほとんど変わりない。ただし、定年退職まであと2年3ヶ月となり、期限内にできることがますます限られてきたので、このさい、「選択と集中」をさらに徹底し、期限内にできないことはバッサリ切り捨て、できることだけを着実に遂行していきたいと考えている。

 2014年の元日で取り上げた「これからの人生は、活動の束モデルで」という考え方については特に修正する必要は感じていないが、ひとくちに「活動」といってもいくつかのタイプがあり、それをどう組み合わせていくかという点については、定期的な点検整備を行っていく必要があるだろう。
  • 新たな体験・発見につながる活動
    私自身はこれまで、このタイプを最も重視してきた。具体的には、学問分野における探究、雑学的知識の蓄積、世界各地の絶景から日常空間でのちょっとした発見などなど。今後もこれらを大切にしていきたいと思っている。
    なお、ある程度のストレスに耐えられる健康体であるうちは、できる限り現実世界にふれる活動を重視していきたいと思うが、体が不自由になった時には、メディアを通じた映像体験、あるいは仮想空間の中で楽しめるRPGなどに置き換えていくこともありうると考えている。RPGの仮想空間はあくまで人工的なものであって、制作者による創造の範囲を超えることはできないが、現実世界における観光名所めぐりに比べれば遙かに新鮮な感動を与えてくれる可能性があるとは思う。といって、私自身が実際に楽しんだことのあるRPGは、スーパーファミコン時代のファイナルファンタジーやドラゴンクエストなどに限られており、その後四半世紀近く、全く遊んだことが無い。【←少なくとも定年退職までは封印】

  • 刹那的な楽しみ
    同じゲームであっても、麻雀、パチンコ、各種パズルゲームなどは、新たな発見や累積的な成果が期待できない。私の場合、これ以上の上達が困難と思われる将棋(詰め将棋を含む)、囲碁、幾何や算数の問題解きなどもこれに含まれる。こういう活動に時間を費やすと、なんだか時間を無駄に過ごしたような空しさを感じることがあるが【←といっても、現時点では、遊ぶほどの時間的余裕はなく、せいぜい、日曜日午前中のNHK杯将棋を観戦する程度】、いずれ加齢によって継続性が求められる活動が困難になった時には、それに代わる慰めになるかもしれない。また、ある程度の時間を知的ゲームに費やすことは、認知症予防になるかもしれない。

  • 社会的貢献
    個人主義的な活動による成果は自分の死とともにすべて消滅してしまう。社会的貢献につながるような活動は、死後にも成果が残せるという点で「死による消失の空しさ」を回避できる可能性がある。私もそのうち、クリスマスキャロルのスクルージのように変身する可能性はある。
    なお、ひとくちに社会的貢献といっても、ローカルな人間関係の中での他者への貢献から、組織への貢献、国家への貢献、さらには人類全体への貢献というようにいろいろな規模がある。
    • ローカルな貢献は、社会全体から見れば利己的な活動(「利己」というよりは「利集団」)となる場合もある。
    • 同じ規模の「ローカル」であっても、世界の各地で起こっている飢餓・貧困に対する貢献は人道的貢献であるが、富裕層に対するサービス提供は、それらの人たちの利己的欲求を満たしてあげるためのツールとして利用されているだけの「貢献」かもしれない。
    • 戦争で敵国を攻撃することは、自国に対しては貢献であるが、相手国にとっては虐殺行為になるかもしれない。

  • ごく普通の、当たり前の日常生活を続けていく活動
    歳をとるにつれて、「普通の生活」を続けていくことの価値を実感するようになった。両眼複視を患ったあとでは「物が1つに見えることのすばらしさ」を実感したし、先月のめまいと吐き気発症から回復した時には、「大地が揺れないことのすばらしさ」を実感した。上記に挙げたような種々の活動が遂行困難になったとき、最後に残る楽しみは、この活動となるであろう。