謹賀新年

じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 今年の年賀状は、キルギスから中国・カシュガルに向かう途中で眺めることのできた天山の雪山の写真とした。雪山はキルギスから見た国境の山々。この道は雪山の手前で左に曲がっており、ディズ・ベル峠(3574m)を越えてからチャテル・クルという大きな湖の横を通り、中国との国境にあたるトルガルト峠に達する。なおこの時の写真は、LifeーXに掲載した。この旅行全体のアルバムはこちら

1月1日(日)



【小さな話題】

年越しの夜

 大晦日、夕食として年越しそばを食べていつも通りに就寝。例によって、紅白は一切視なかったが、別室で、

NHK BSプレミアム再放送:世界一番紀行「世界で一番“遠い”島〜南大西洋トリスタン・ダ・クーニャ」南大西洋・知られざる絶海の孤島▽片道9日!貨物船の旅 19:00-20:30

という番組を視た。風景が珍しいというよりも、資源の限られた絶海の孤島で暮らす人々のコミュニティの仕組みが興味深かった。

 ふだんは翌朝までぐっすり眠れるのだが、この日は、隣室から紅白などのやかましい音が聞こえてきたことと、妻が明かりをつけて夜遅くまで年賀状を書いていたことなどにより、何度も目が覚めて、いっぱい夢を見た。夢の内容は、
  1. 授業を終えて研究室に戻ろうとしたが、その階や1つ上、1つ下の階にも私の研究室のドアが見当たらす迷ってしまった。
  2. 動物実験室で、見知らぬ学生や留学生が勝手にネズミやハムスターを飼い始めていて、その一部が逃げ出して床を這い回っており、ケージに戻すのが大変だった。
  3. 学会の会場に向かうためにバスに乗ろうとしたが、どのバスに乗ってよいか分からない。迷っているうちに、開会時刻が大幅に過ぎてしまった。
というようにネガティブな展開ばかりであった。

 夜更かししていた家族・親戚一同が寝静まっている中、私は真っ先に起きていつもどおりにパンとチーズとコーヒーで朝食。ちょうどテレビで、全国各地の初日の出風景を中継していたが、なかでも、太平洋から昇る気仙沼の日の出は感動的であった。

【思ったこと】
_c0101(日)新年の抱負/人間はしょせん、種々の行動の花束

 このWeb日記は1997年から執筆しており、正月旅行に出かけた年を除いて毎年、年の初めの日記に「新年の抱負」を書いている。これまでは余り変わりばえしない内容であったが、今年は少し違って、決意を新たにしたいという気持ちが強い。というのは、今年は辰年、私自身にとっては還暦を迎える年となるからである。

 これまでのところ、特に健康上の問題はないが、実母が60歳と半年あまりで癌で死亡していることを考えると、癌になりやすい遺伝子を引き継いでいる可能性の高い私もいつそういう状況になるのかは分からない。母親の場合は、癌が判明する半年前の検診では異状なしと判定されていたそうだから、毎年私自身が受けている職員定期検診の結果が異状なしであっても安心できないところはある。といっても、これ以上防ぐ手立てが無い以上は、いつ宣告を受けても動じない、かつ、悔いの残らないような覚悟をしておくことが肝要ではないかと思っている。

 還暦が特別な年であるというよりも、定年退職まであと6年と3ヶ月(規定によれば、65歳になって最初に迎える3月31日が退職日)ということのほうが、私には意味が大きい。定年になれば、研究室も住居も明け渡さなければならないので生活スタイルが大幅に変わる。また、研究面では、図書館まで足を運ばないと、電子ジャーナルや研究用図書が読めないといった不都合が生じる。学会費や年次大会参加費も、現在は毎年20万円ほどを払っているが、退職後は私費でまかなうほどの余裕が無く、大部分は退会せざるをえなくなると思う。

 そのようなことを考えると、アクティブな研究活動ができる期間というのは、やはりあと6年3ヶ月。大学に入学してから修士論文を書き上げるまでの期間とほぼ同じということになる。月日の経つのがあまりにも速いということは十分に心得ているので、できないことはバッサリと切り捨てつつ、可能な限り、成果を出していきたいと思っている。

 というように偉そうなことを書いてみたが、私は、自分自身を、1つのミッションを遂行するための飛行物体のようには考えていない。デフォルトの「自分らしさ」などは存在しないし、「脱アイデンティティ」の考え方にもほぼ同意できる。(←但し、三人称的なパーソナリティや社会的役割という点での、責任をもった一貫性は必要であろう。) 私自身が考える「人生のカタチ」は、側面から眺めれば、2011年11月15日の日記に示したようなものである。(←実際には立体のカタチをしており、輪切りにすれば、その時点での行動の包含関係や他者・外界とのつながりが図示できる。) 先日の質的心理学会では、従来の心理学において個人を個人差変数の花束のように扱うことが批判的に取り上げられていたが、その主張にはかなり同意できるとしても、人間はしょせん、種々の行動の花束のようなものであって、それ以上でもそれ以下でもないと私は思っている。その束は必ずしも過去・現在・将来を1本でつなぐようなものではなく、枯葉の形で可視化できるように、人生のある時点から始まってある時点で完結(達成する場合もあるし、失敗・断念することもあるし、別の行動に昇華していくこともある。よって、その枯葉の1枚が失われても人生全体がどうにかなるというものではない。また、過去のある断面と現在とでは、構成している枯葉が全くことなっており、何の連続性も無い、つまり別人になっているということだってある。にも関わらず、自己が一貫した連続体であるように錯覚するのは、
  • 過去の記憶が現在に影響していること
  • 社会的役割や他者との関係(二人称や三人称)において、一貫性が要請されており、それに合わせて振る舞うことが強化されていること。
  • 枯葉の1枚1枚は、他者のそれとは交換できないこと
などによるものと思われる。

 とにかく、自分自身においては、どういう枯葉(=行動)を維持していくのか、どういう枯葉はそろそろ撤去するべきなのか、新たにどういう枯葉を付け加えていくことがよいのか、ということが重要なのであって、いたずらに「自分探し」をするのは時間の無駄。また、複線径路・等至性モデルというのも意義深いアイデアであるとは思うが、人生なにもそんなに線でつながなくてもエエじゃないかという気もしている。