じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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今年の岡大イルミネーションは12月15日から。
 2006年以来、毎年、11月下旬から12月上旬頃に生協食堂・マスカットユニオンの周りにクリスマス・イルミネーションが取り付けられるようになっている。もともとは生協の売り上げ余剰金の還元策の1つであると聞いているが、数年前から、学生団体(大学が支援?)による別のイルミネーションイベントと連携するようになってきた。12月14日夕刻には、写真のような取り付け準備作業が進められていた。

 大学の公式案内によれば、今年のイベントはピーチユニオン(南福利施設)周辺で開催。12月15日が点灯式、12月26日の日曜日が最終。公式名称は「岡山大学Fantasy -Slow Night-」となっていた。


これまでの主な記録写真は以下の通り。

12月14日(火)

【思ったこと】
_a1214(火)日本質的心理学会第7回大会(15)現場の心理学はどこまで普遍性をもちうるのか(5)視点の切り替えと共感の違い

 昨日の日記の続き。「冷たいねえ」、「暖かいでしょ」、「今日は寒いねえ」という話題を拝聴して私自身が思ったのは、相手の視点に立つということと、相手の気持ちを思いやる(あるいは共感する)ということは異なるのではないかということである。

 12月11日の日記にも述べたように、単に視点を切り替えるというだけであれば、将棋や囲碁で、先手番と後手番それぞれの戦略を考えるというのも視点の切り替えの1つと言える。しかしこれはゲームなので、相手棋士に共感する必要は全く無い。また、狩りや釣りをする時には、獲物となる動物の行動を予測する必要があるが、それらは「獲物の視点に立つ」と言えないこともない。さらに山岸(2010)のような、
...人はゲーム・プレーヤーであり、個人は、自分の行動が他の人々からどのような反応を引き起こすかを予想し、その予想した他者の反応が自分にとって望ましい結果をもたらすかどうかを判断して行動している。【山岸俊男(2010). 文化への制度アプローチ. [石黒広昭・亀田達也(編). 文化と実践心の本質的社会性を問う. 第1章新曜社. pp.15-62.]】
という主張もあるが、この場合もやはり、他者の行動を予想することまでにとどまっており、相手の気持ちを思いやるところまでは前提としていない。

 元の話題で、先生が子どもの手を握って「冷たいねえ」とつぶやいたとしたら、これは通常は先生(発話者)の視点ということになる。但し、子どもの指が凍傷になっていないかどうかを診断するために手を握って「冷たいねえ」とつぶやいた場合は、子どもの指の状態についての状況把握ということになるだろう。インフルエンザの疑いのある子どものおでこに手を当てて「熱いねえ」という場合も同様。

 次に「暖かいでしょ」というのは、子どもの視点に立つと同時に、その子どもの手を温めてやりたいという愛情の表現にもなっている。3番目の「今日は寒いねえ」は、この日記を書いている季節では、すれ違う時の挨拶として使われる表現でもあり、おそらく、「お互いに寒いですねえ。風邪をひかないように気をつけましょう」というように、場を共有しお互いをいたわるような気持ちが込められている。であるからして、厚着をしていて全く寒さを感じない場合であっても、すれ違った時に「寒いですねえ」と言われたら、「そうですねえ」と同意することで挨拶が成立する。もし、「いや、私は寒くないですよ」とか、「いや、今日の最低気温は平年より5°高く、はこれから低気圧が接近し、南から風が吹くので暖かくなりますよ」などと気象解説をしたら変な人だと思われるだけであろう。

 要するに、ある場面でどういう言葉が発せられたのかということは、視点の切り替えができていることの証拠にはなりうるが、前後の文脈によっては、子どもの熱を測るときのような別の視点になっている場合もある。また、相手の気持ちを思いやったり共感することとは別の問題として受け止めたほうがよさそうである。

 次回に続く。