じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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§§ 南北通りのイルミネーション始まる

 昨日の日記に追記したように、12月11日から、岡山大学FANTASY「煌(きら)めき」というイベントが開始された(写真上)。

 リンク先にもあるように、このイベントは
●イルミネーション● <点灯期間>2008/12/11〜2009/1/9
企画団体 校友会
会場 岡山大学南北通り・清水記念体育館前

点灯時間 
17:00〜21:30(土曜・日曜・祝日及び12月27日〜1月4日は除く)
※12/11(木)の点灯式実施日は18:00〜21:30
12/20(土)は17:00〜20:00点灯
12/21(日)は17:00〜18:00点灯 (18:00〜20:00キャンドル点火)


これに連携して、音楽イベントのほか、
  • うらじゃ演舞披露<日程>12/17(水)18:00〜21:00
  • キャンドルナイト<日時>12/21(日) 18:00〜20:00
も行われるというとのことである。

 道路沿いの信号機に配慮しているのだろうか、赤や緑色系の光は使われていない。

 写真下は、昨日も掲載した、生協食堂(マスカットユニオン)のクリスマス電飾。なお、今年は、ピーチユニオン前の電飾は行われていないようである。昨年ピーチユニオン前で飾られていた各種の電飾グッズはマスカットユニオンのほうに移設された模様。



12月11日(木)

【思ったこと】
_81211(木)[心理]日本心理学会第72回大会(63)因果帰納推論と随伴性学習(7)

 シンポではもうお一方、Patricia W. Cheng氏による、

A Causal Bayesian Approach to Causal Inference

という話題提供?が行われた。「話題提供」のあとに疑問符をつけたのは、嶋崎氏の企画趣旨説明のほうでは、「Comment and more」として紹介されていたためである。但し、大会プログラムでは、話題提供者と指定討論者の両方にお名前が挙げられていた。

 12月5日の日記にも書いたように、この方の話題提供は14時44分から始まり、終了予定時刻の15時を過ぎても延々と続いたため、次のシンポのために会場を使う人たちからたびたび、早く終われというようなクレームが寄せられていた。そんなこともあって、内容のかなりの部分が飛ばされてしまい、全容を理解することは到底困難であった。

 もっとも、Cheng氏は、9月19日にも、
SL03 Causal assumptions for coherence and compositionality
帰納学習における因果的仮定:一貫性と合成 19日 15:30〜17:30

講演者 University of California, Los Angels Patricia W. Cheng
司会者 関西学院大学 嶋崎 恒雄
抄訳者 関西学院大学 大対 香奈子
という招待講演をなさっており、そちらのほうをちゃんと拝聴していれば、十分に理解できた可能性があった。但し、この時間帯は、私は、超高齢者研究の現在のほうに参加していたので、1つのからだで同時出席することは不可能であった。

 また、今回は数分の指定討論しか拝聴できなかったが、繁桝先生が登場されるベイズ推定やベイズ的アプローチに関する企画は別にもあり、この問題に強い関心を持っている人であれば、それらをセットにして参加することで理解が深められたのではないかと思う。




 ということもあって、今回の因果帰納推論に関する連載はこれで終わりとさせていただくが、この種の研究に関連して、そもそも「因果帰納推論」をどうとらえるべきかについて、このさい、もう少し別の見方にもふれておきたい。

 そもそも因果的推論というのは、何をする行動なのだろうか。心理学の実験場面では確かに、被験者に対して「○○が起こりました。××はその原因だと思いますか? YES or NO」、あるいは、「××はどの程度、○○の原因になっていると思いますか?」というような質問を浴びせることはできるし、被験者も大して戸惑うことなく、それらに回答することができる。

 しかしだからといって、日常生活行動において、確率的な変動を伴う選択が因果推論に基づいて行われているという保証はどこにもない。因果的帰納推論とはやや異なる領域になるが、Rachlinは、

Rachlin, H. (1992). Teleological behaviorism. American Psychologist, 47, 1371-1382.

という論文の中で以下のような指摘をしている【長谷川による翻訳、要約引用】
  • 認知モデル(Kahneman & Tversky's, 1979, prospect theory) の研究者による一連の典型的な実験では、それぞれの群の被験者多数に、以下のような仮定に基づく質問が行われている。「50%の確率で賞金1万ドルを手にする場合と、確実に5000ドルを手にする場合のどちらを選びますか(この質問に対しては、被験者の圧倒的多数が確実な場合のほうを選ぶ。)
  • この認知モデルの第一段階では、内部表象において、与えられた問題をまず「編集」し、それを4つの要素に加工するという処理が行われる(確率が1.0および0.5、 賞金が5000ドルと10000ドル)。内部表象は直接的に情報を伝えるが(上の破線)、しかしそこで発出されたものは、意志決定の第一段階にすぎない。それらの情報は、決定に至るある理論によって記述されるような形で複合され、そこから決定結果が伝えられる。
  • 現実の選択場面、つまり、被験者は、時々、仮想の確率現象の結果ではなく、現実の結果について選択を求められる。この場合の決定についての言語報告内容は、きわめて信頼できる予測を含んでいる。(もちろん、現実の選択実験では、扱われる金額は遙かに少ない)。認知理論が想定する極端な対象は、現実世界や実験場面を超えた広範な決定、選択を予測するものである。
  • 我々の視点から見ると、ここで重要なのは、確率が基本的に1つの内部状態であると考えられている点である。実験者が「1万ドルを貰える確率は0.5である」と教示するのは、プロスペクト理論(そして大多数の認知論者たち)によれば、内部状態の活性化操作にすぎない。真の確率とはその表象なのである。これは、確率についての主観主義者の見解を反映している。すなわち、将来起こりうる事象についての確信、あるいは確からしさの度合いを反映しているというものである。そして、その確信度や確からしさが後の選択を決定する (Lucas, 1970)。気象予報士が「降水確率は90%です」と言うと、雨降りについての確信度が高まり、これが、聞き手が雨傘を持って出勤する原因として働く。気象予報士の言葉は、この確信の動力因となる。少なくとも部分的に、それが傘を持ち歩くという決定の動力因となったのである。
  • いっぽう行動主義者は、実験者が「1万ドル貰える確率は0.5です」と教示することは、内部表象の誘発ではないと考えている。それはもともと、すべて、外的な確率事象のクラスを表現したものになっている。言語的教示が与える機能は、これらの事象にまつわる文脈を心理学実験という狭い場所に条件を限定することである。言い換えれば、言語教示はある強化履歴に対する弁別刺激となっているのである。
  • 【行動主義者の立場から見れば】ある人にXが生じる確率は0.5であると教示することは、「この実験では、コインを投げて、表が出た場合には賞金が貰えたと仮定して行動してください」と言っているようなものである。被験者が強化履歴のようなものを持っていなかったとしたら、実験者の教示は無意味なものとなる。
  • 行動主義の観点から言えば、真の確率は、その事象自体の相対出現頻度である。これは確率についての客観主義的な見方である。行動主義的観点から見れば、気象予報士が「降水確率は90%」と言明することは、一般のあらゆる弁別刺激の形成と同様、出勤時に傘を携行する弁別刺激として同じように形成される。与えられたオペラント随伴性のセットの中で、その刺激が信頼できるような情報を提供することによる(1つ前の機会において、同じような予報が出され、雨傘を携行して出勤しそれが強化されるというように)。
  • 行動主義の観点から言えば、確率事象を言明することの本質的な意味とは、外部世界で表現されるということ(弁別刺激として機能するということ)であり、いっぽう認知主義者の観点からは、確率事象についての言明はそれが、内部表象としてどのように表象されるのかということに意味がある。これは、行動主義と認知主義の用語の意味の違いである。
  • 但し、行動主義的アプローチも認知主義的アプローチも統語的な構造を扱ったり説明しようとしたりはしていないという点に留意する必要はある。複数の統語的に等価な言明が同一の内部表象を引き起こすことのほうが、複数の統語的に等価な言明が外部行動の同一の弁別刺激となることよりも明確であるかどうかは定かではない。
 以上の要約引用にもあるように、気象予報士が「降水確率は90%」と言明することは、一般のあらゆる弁別刺激の形成と同様、出勤時に傘を携行する弁別刺激として同じように形成されているにすぎない。因果帰納推論と言われている行動現象も、実験室から一歩外に出れば結局のところ、同じように、

弁別刺激→選択→結果(強化あるいは弱化)

という体験のプロセスで形成されていく行動の一部を言語的に表明したにすぎないのであって、いちいち因果帰納推論が行われ、厳密に確率の大きさを計算した上に行動しているというわけではないように思う。

 では、12月9日の日記に記したような、ワイングラスが割れるという1回限りの体験、あるいはアスベストが原因で肺癌になるという事例のように、Φ係数の中のdが∞になる場合はどう考えたらよいのか。この場合、数学的な相関に基づく因果推論ではないことは確かだが、
  • ワイングラスが割れるという1回限りの「行動→結果」が、強烈な弱化をもたらしたと考えればよい。
  • アスベストの事例は、(自分の直接体験が含まれない)第三者からの情報のどの部分が弁別刺激になりやすいかという議論として扱えばよい。
というように扱っても、行動の予測や制御は十分にできるようにも思える。

 以上のほか、もっと根本的に、そもそも因果とは何かという議論もあるが、時間が無いので次回に続く。