じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 2010年版・岡山大学構内の紅葉(31)目立ってきた「落ちないアメリカフウ」

12月11日の日記に掲載した“目立ってきた「落ちないイチョウ」”同様、時計台前の「落ちないアメリカフウ」のほうも、周辺の木々の落葉により目立ってきた。写真右手の数本にはまだ御本家の1/3程度の葉が残っているが、明らかな違いが見て取れる。

 なお、12月13日から14日にかけて岡山では12ミリの降水があった。

12月13日(月)

【思ったこと】
_a1213(月)日本質的心理学会第7回大会(14)現場の心理学はどこまで普遍性をもちうるのか(4)真冬のグラウンドで遊んでいた子どもの手を先生が握った時の視点

 本源的共同性に関する2番目の事例は、酸っぱいレモンの話であったが、細かい部分は失念してしまった。(この基調講演の録画はいずれ動画配信されるそうなので、その時に確かめてみたい。) 私が記憶している範囲になるが、要するに、酸っぱいレモンをくわえた赤ちゃんは顔をしかめる、その後で他の人が同じレモンをくわえるのを見ると、その赤ちゃんは同じように顔をしかめるというような事例であったと思う。かなり幼い時期から、瞬間的に相手の視点に移動できるというような解釈ではなかったと思うが定かではない。

 もっとも、情動的反応は、他人の視点に移動しなくても起こりうる可能性があるとは思う。例えば、一人で視たら大して可笑しくないようなドラマであっても、周りの人たちが皆笑っていたり、ドラマの中に観客の笑い声を挿入することで、思わず笑い出してしまうということはある。逆に、もらい泣きという現象もあるが、それらは、別段、相手の視点に立ったから笑ったり泣いたりするわけではない。周囲の刺激に誘発されて、自分自身が情動反応を引き起こしているにすぎない。上掲の酸っぱいレモンの場合も同様の可能性があるし、もっと単純に、レモン→しかめ面というレスポンデント条件づけによって、レモンを見ただけで条件反応としてのしかめ面が誘発された可能性がないとは言えない。

 さて、3番目の事例は、発達障害の子どもの場合には視点の移動が起こりにくいという事例であった。正確な内容は失念してしまったが、真冬のグラウンドで遊んでいた子どもの手を握った時に、先生が「冷たいねえ」とつぶやいたというような内容であった。何十年も前のエピソードであり当時は発達障害についての知見が限られていたと思われるが、どうやら自閉症であったようだ。そして、その子は、部屋に戻ってストーブに手をかざしたときに、「冷たい、冷たい」とつぶやいていたという。その子にとっては、先生に手を握ってもらった時の「暖かさ」がストーブの「暖かさ」と同じ刺激であったため、暖かさを表現することばとして「冷たい、冷たい」を発したのであろう、というようなお話であった。

 先生が子どもの手を握った時、「冷たいねえ」ではなく「暖かいでしょう」とつぶやくこともできたはずだ。これは、子どもの視点に立った表現ということになる。そうすればその子は、ストーブにあたった時にも「暖かい、暖かい」とつぶやいたはずであろう。このほか、先生と子どもに共通の視点として「きょうは寒いねえ」という表現もありうる。とにかく、本源的な共同性を論じるにあたって、ある種の子どもで視点の移動が起こりにくいということは、何十年も前の浜田先生にとっては驚きであり大きな謎であったようだ。

 次回に続く。