じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真] オウバイ。こちらに記したように、モクセイ科ソケイ属で半ツル性ということでちっとも上に伸びない。コスモスに埋もれていてその存在を忘れていたが、ちゃんと花を咲かせた。


3月9日(木)

【思ったこと】
_60309(木)[心理]脱アイデンティティ、モード性格、シゾフレ人間(1)

 後期の成績評価、年度末報告などが一段落し、やっと本が読めるようになった。ちなみに、今年度に私が担当した授業コマ数は分担授業を入れて18.9コマ(半期15回を1コマ換算)であったが、某調査によればどうやらこれは文学部教員で2番目に多いコマ数のようだ。授業だけならともかく、各種委員会や地域貢献の任務をこなし、その上で研究活動を進めろといってもできることは限られている。これから先、少なくとも1年間は、研究活動にウェイトを置きたいと希望しているところである。

 さて、いま取り組んでいるテーマの1つに、

●行動分析は人生の意味づけに役立つか

というのがある。人生は、ポジティブな経験とネガティブな経験の単純加算ではない。ナラティブセラピーの入門書(『ナラティヴ・セラピーって何?』ISBN:4772407669) の言葉を借りれば、
私たち人間は、ものごとを解釈する生き物です。日々いろいろな出来事を経験し、そこから意味を見出そうとします。私たちの人生のストーリーは、いくつかの出来事が時間軸上で、特定の順番につなげられることによって、そして、それに意味を見出したり、それを説明するための方法が見つけられることによって、創造されます。また、この意味によって、ストーリーのプロットが形作られます。私たちは、人生を生きる時、経験に意味を与え続けているのです。
という、能動的な意味づけによって構成されるものである。その際に、行動分析の知見がもっと活かせるのではないかというのがそもそもの出発点であった。

 その際にどうしても考えに入れなければならないのは、「多元化する自己」という発想である。要するに「一貫性のある自己」というものを根本から問い直してみる必要があるということだ。

 「多元化する自己」に近いアイデアを初めて知ったのは、和田秀樹氏の言う「シゾフレ人間」(2000年4月4日の日記ほか参照)という概念であった。

 和田秀樹氏は言うまでもなく著名な精神医学者であり、「シゾフレ」は「分裂病に引かれやすい」に由来している。




 これに対して、昨年12月に出版された

●上野千鶴子編『脱アイデンティティ』ISBN 4326653086

は社会学の立場から、「アイデンティティは賞味期限切れの概念ではないか」を説いたものである。

 もう1冊、昨年11月に出版された

●サトウタツヤ・渡邊芳之『「モード性格」論―心理学のかしこい使い方』ISBN 4314009977

は心理学の立場から書かれた本である。

 いずれも、「一貫性のある自己」に懐疑的という点では共通点があるが、何についての一貫性なのかということについては本質的に異なる部分もある。




 例えて言えばこんなことだろう。ある家に3台の車、A車、B車、C車がある。このうち、どこへ行くにも、どういう天候であろうとも、とにかくA車だけに乗って、いつも同じように運転するというのであれば、これは強度の「一貫性」である。

 つぎに、3台のどれに乗るかは状況次第であるが、とにかくA車に乗った時はA車に合わせて、B車に乗った時はB車に合わせてというように、同じ車に乗ったときにはいつも同じように運転するというスタイルだ。この場合、異なる車に乗るという点では同一性に欠けるが、車を選んだあとはそれぞれで一貫性が出てくる。これは、いわゆる「多重人格」に近い考え方である。

 もう1つ、乗る車はいつもA車だが、道路事情、天候、目的などの状況に合わせて、時には乱暴な運転をしたり、時には細心の注意を払って安全運転をしたりというように、運転スタイルを変えるというものだ。

 上記の例では、いちおう、同一人物が運転しているという前提に立っているが、じつはその家には、どうやらX、Y、Zという3人が住んでいて、外見上、区別がつきにくいという事例も考えておく必要があるだろう。とにかく3人が存在しているのだから、少なくとも3つの人格があると考えるのが自然である。しかし、その3人に10年ぶりに会った人にとって、10年後のx、y、zと、過去のX、Y、Zを対応づける根拠はどこに求めるべきなのだろうか。指紋を照合すればそれだけで済むのか、それとも、とにかく、時間的連続性(Xからxへの変化は24時間365日ずっと連続的に存在しながら変化している)を保証すればよいのか。

 というような感じで次回に続く。