じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 2011年版・岡山大学構内でお花見(42)クロガネモチの雄花と雌花

 岡大図書館(時計台)正面にはクロガネモチの樹が2本植えられており、向かって左側が雄樹、右側が雌樹となっている。毎年5月末頃に花を咲かせる。2008年5月29日にも同様の写真あり。

6月1日(水)

【思ったこと】
_b0601(水)2011年版・高齢者の心と行動(13) 喜びに低級や高級の区別は無い(6)社会的注目や「好子共有」の効果

 5月30日の日記では、夢や目標を持つことの意義について、また5月31日の日記では過去の累積的な実績と関連づけることの意義について述べた。これらは、いずれも、孤島で独り暮らしをするロビンソンクルーソーでもできることであるが、通常の日常社会では、社会的な要因によってさらにプラスアルファの好子がもたらされるのが普通である。

 まず、過去の累積的な実績に対しては、コミュニティからの称賛、栄誉を称えるといった付加的な好子がもたらされる。また、登山の回数のような場合は、単に1000回登山というようなキリ番達成だけでなく、ランキングを競うことによって強化される場合もある。(もちろんそういう競争には与しないで、黙々とマイペースで自己の目標達成をめざすことを好む人もおられる。)

 いっぽう、将来の目標に関しては、に挙げたような、「天国に行く」、「ひ孫の誕生まで長生き」、「自著の完成」というような、きわめて「個人主義的」な目標(5月31日の日記参照)以外に、集団や組織が掲げる目標達成のために貢献するという形で好子が出現することもありうる。この場合、自分自身の貢献の度合いが明確であればあるほど、自己の目標と一体化をはかることができ、社会的ジレンマに陥らなくて済むようになる。いっぽう、自分自身の貢献が不明確であり、取り替え可能な部品のような役割しか果たしていない時には、そのような「好子共有」をはかることはできず、集団のしがらみから逃れて個人の目標達成に専念することのほうが有効ということになる。

 「好子共有」のメリットは、個人としては最終結果に到達できなくても、貢献という成果だけで十分に強化的になることである。近くの山に1000回登るという個人目標を立てた人が900回目で病に倒れれば、こころざし半ばで挫折ということになるが、近くの山にみんなで1000本の樹を植えるという共同の目標を立てた場合、900本目で病に倒れたとしても、残りの100本が仲間の手で 植えられるのであれば、達成の喜びには変わりは無い。このほか、子孫や世間のために尽くすという行動は、将来の好子出現で強化されることもない代わりに、達成に居たるプロセスで意に反して失われる好子というのも少ない。その分、「何か虚しさを感じたり、葛藤に陥ったり、物足りなさを感じる」という事態(5月30日の日記に陥る恐れも少なくなる。

 次回に続く。