じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] [今日の写真] 北九州市・若松にある響灘グリーンパークの写真、第三弾。お花畑を登っていくと「童話の森」というメルヘンチックな世界が広がる。肉眼では作り物であるとすぐに分かるが、うまく写真に撮れば本物そっくりに見えそう。残念ながら、子どもたちにはあまり人気が無いようだ。静かすぎるためだろうか。


5月4日(火)

【思ったこと】
_40504(火)[一般]改憲・護憲のネジレ現象

 5月3日は憲法記念日であったが、一部の政治家やマスコミを除き、改憲や護憲についての議論は全く盛り上がっていなかったように思える。当日行われた集会やシンポに参加した人たちはごく少数であり、大多数の人たちは、連休中の渋滞情報やイベント情報のほうに注意を向けていたに違いない。かくいう私も、中国道を移動して岡山に戻り、夕刻は寄せ植えのポット苗を買いに花屋に行ってきたところであった。

 改憲論議についての私の考えは、毎年一度くらいはこの日記にも書いている。過去日記をたどると、私自身の考えもずいぶんと変わってきたことに気づくが、年を取るにつれて、次第に関心が薄くなってきたというのが率直な感想である。憲法改正論議というのは20年後、30年後を見通した長期的視点で議論されなければならないと思うが、残念なことに私自身は、20年後はともかく、30年後まで長生きできるかどうか自信が無い。だから、この問題は、20歳代や30歳代の人たちにもっと真剣に考えてほしいと思う。その上で、何か具体的な提案があれば私も意見を述べるかもしれないが、自ら進んで改憲の論陣を張るとか、護憲の旗をたてて行進をするのは、もはや私には似合わない。

 とはいえ、最近のテレビや新聞記事を見ていて、これはちょっとどうかなあ、あるいは、本当にそうなんだろうかと思うことがいくつかある。




 まず、改憲の具体的内容を示さずに「憲法改正に賛成か、反対か」というパッケージ的な問いかけをするのは全く無意味であると思う。その理由は、2000年5月5日の日記や、2002年5月2日の日記(翌日に続編あり)で述べたので、ここでは繰り返さない。




 それから、単に「古くなったからダメだ」というのも改憲論の根拠としては説得力を持たないと思う。古いのが悪いと言うなら、天皇制(もちろん、平安時代、江戸時代、戦前、戦後では形を変えているけれども)は遥かに古いし、後でも述べるが、日米安保体制は現行憲法と同じくらい古い。「アメリカの押しつけ憲法だ」というのも、誕生の経緯はそうかもしれないが、現実にアメリカから押しつけられているのは、安保体制や経済的依存に由来することばかりである。




 日曜日朝にチャンネルを回していたら、たまたま、長老政治家や高名評論家が改憲論をぶっていた。日本人の誇りや主体性を取り戻すべきだと強調しておられた点は私も同意できるのだが、どちらの方も、日本で政権がどう変わっても、日米安保の枠組みはゼッタイに堅持しなければならないと言っておられた。この点はどうにも納得できない。日米安保がそこまで大事だというなら、いっそのこと、憲法の条文に

第○条 日本国ハ、米国トノ同盟ヲ拠リ所ニシテ繁栄スヘシ
第○条 米国ノ決定ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

を加えたらどうだろうかと思う。




 今述べたことからさらに考えを進めてみるに、今の日本で、9条堅持の立場の人たちがもっぱら「反米」的、これを変えようとする立場の人たちがもっぱら「親米」的であるというのもずいぶん奇妙なネジレ現象だと思う。

 戦後ほぼ60年、とにかく憲法9条があり、その一方で、日米安保体制があった。憲法9条を守ろうとしている人は安保条約廃棄を唱え、憲法9条を変えようとしている人は日米安保堅持を唱える傾向があるが、じつは、憲法9条があればこそ、これだけ長期間、米軍基地が存続し続け、対米追従を余儀なくさせられてきたのではないか。であるなら、本来、安保廃棄の立場から改憲論が主張され、親米的立場から護憲論が主張されるのがスジではないか。このあたりに、論理のネジレがあるように思えてならない。




 ところで、5月3日に開催された改憲論のシンポジウムでは「利己主義と利他主義の戦いにすべきだ」という考えが与党議員から出されたというが、昨今の自己責任論のロジックのネジレ(4/27の日記参照)や、「支え合い」「助け合い」論などを含め、護憲論、改憲論の間でやはりネジレが生じているように思えてならない。

 素人なりに解釈してみるに、いまの小泉内閣路線は、大枠で
  • 生産手段の私有
  • 経済行為を行なう経済主体は、その所有する生産要素あるいは生産物を市場に供給し、市場価格によって評価された額を所得として得る
  • 経済のプロセスは最終的には個人の行為の集積として分解可能
  • 人間は利己的経済主体であり、市場でその生産物の価格を高めるため努力し、競争し、評価された額をその所得として受け取ることに倫理的正当性がある
という、新古典派経済理論を制度的前提とし、競争原理や成果主義を重視した改革を進めているものと考えられる。これは、旧来の日本型経営システムや日本独自の合意形成システムとは相容れないものであった。そのあたりの整合性はどう保たれるのだろうか、あるいは共和主義的「公私観」への誤認があるのだろうか。




 ま、いろいろ議論はあるが、個人の生きがいや責任感に関わる問題は、憲法を変えれば解決するようなものではない。必要なことは、文化の再生と創造。いずれも、地道なボトムアップの積み重ねのなかでしか達成できない性質のものだ。