じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 4月26日夜から27日朝にかけて岡山でもかなりの雨が降った。文法経グランドには大きな水たまりができ、半田山の新緑を映していた。


4月27日(火)

【思ったこと】
_40427(火)[一般]「反日分子」発言と自己責任論は別

 自民党の某議員が26日の参院決算委員会の質問の中で、「人質の中には、自衛隊イラク派遣に公然と反対していた人もいるらしい。そんな反政府、反日的分子のために血税を用いることは、強烈な違和感、不快感をもたざるを得ない」と述べたという。「反日分子」という言葉があまりにも不穏当で、しかも国会審議の中で用いられたということで、その表現自体に反発の声が寄せられているが、本当の問題はもう少し別のところにあるように思う。

 私が納得できないのは、

●政府の方針に反対していた人たちがいた。そういう人たちのために血税を用いることには違和感、不快感をもたざるを得ない

というロジックである。これは、私が16日の日記で書いた自己責任論とは全く異質な発想である。このロジックは、極論すれば、人質の思想内容や政府方針への一致度によって救出の費用を加減しても構わないという主張につながる。同じ人質でも、アメリカ万歳、自衛隊頑張れと言って勝手にイラクに行った場合は血税で救出、その反対の立場でイラクに行った場合はお金を払えというのか、それではまるで全体主義国家。フセイン時代のイラクと何ら変わらない発想になってしまう。

 16日の続きとして書いた23日の日記で強調したように、私は、自己責任論と「志の公共性」は全く別物であると考えている。政府にどこまで救出責任があるかということは、対象者の渡航にどれだけ自由意志が働いていたか、政府にどこまで規制の権限があったのか、その一点だけで判断されなければならない。つまり
  • 政府の命令で派遣された場合は、政府は全面的に責任を負わなければならない。
  • 平穏な生活を続けていた善良な市民が、拉致やハイジャックなどにより身の危険に晒された場合も、当然、全面的に責任を負うべきであろう。
  • 政府の認可のもとで企業活動が行われ、その駐在員が被害に遭った場合は、政府と企業は連帯責任を負う。但し、その度合いは、企業がどこまで自主的に活動していたのかによって変わる。
  • 個人が、自らの意志で危険地域に赴き活動する場合は、当然その個人が自己責任を負う。ここでいう危険地域とは、戦争状態にある地域、危険を伴う登山など。
というような基準で判断していけばそれでよいと思う。

 だからこそ私は、今回の事件で政府に救出を求めるのは間違いであると思うし、そんなことを言い続けていたら逆に、個人の自主的な活動が制約を受けることになるぞと、警告しておきたいのだ。私が国会議員であれば、上記●印の部分は次のように言い換えるだろう。

●政府の方針に賛成、反対にかかわらず、自らの意志で危険地域に赴いた人たちのために血税を用いたことには違和感をもたざるをえない

 「数十億円もの血税を用いることに強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」という批判はあくまで、血税の支出を決定した政府に向けられるべきであろう。某議員はまた「国会開会中に官邸の機能が妨害、寸断されたわけで、言ってみれば公務執行妨害的なところもある」と述べたともいうが、官邸の機能を低下させたのも結局は政府自体の責任である。「反日的分子」という不穏当表現は言語道断であるが、政府の過保護な対応に対する批判という趣旨であるならば全く同感である。あの事件はそんなに大騒ぎするべきでなかった。大騒ぎすること自体がテロリストの思うつぼであった。16日の日記に書いた私の考えを再掲しておく。
人質が助かった今だから敢えて言うが、個人的には、このニュースが連日トップ項目で伝えられることには少々違和感があった。人の命に関わるという一点においての重大さは何物にも代え難いとはいえ、大局的な視点に立てば、重大なニュースは他にもたくさんある。年金審議もそうであるし、北朝鮮拉致被害者の家族が未だに分断放置されているというのもきわめて深刻な問題だ。仮にエベレストの頂上直下で日本人登山者3人が遭難し救助を求めていたとしても、今回の人質事件ほど大きく取り上げられることは無かったであろう。