じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
ブロッコリーの花。春休みに旅行をしているあいだに花が咲きそろってしまった。 |
【思ったこと】 _10413(金)[心理]象牙の塔と現場心理学(9)「遊民」と研究の再利用可能性 4/14朝5時台のNHK「五七五俳句紀行」で小林一茶を取り上げていた。一茶は、自分が土を放棄し「耕さず生き、耕さず喰らふ」(←記憶不確か)ことに罪の意識を感じていたという。ごく一部しか視られなかったので何とも言えないが、自給自足の力を持たない「遊民」を蔑む風潮があったのかもしれない。 近代の産業社会では、農工業の生産技術が進歩し人手がかからなくなったことと、芸術や娯楽やスポーツなど、人々の生活に潤いを与える職業が社会的に認知されるようになったため、直接生産に関わる仕事をしていないという理由で罪の意識を感じることはまずなくなった。 しかし、「生産に貢献しているか」という価値基準が失われていくにつれ、何をもって仕事の価値とするかという新たな問題が、仕事をするすべての人に問われるようになってきた。「学問・研究の自由」があり、研究者の給与上の生活が保障されていても、話は同じである。ただがむしゃらに実験を繰り返していればよいというものでもないし、自己完結的な満足をもたらすだけの研究活動であってはならないと思う。 さて、4/10の日記では、研究の価値ということについて、南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』の第1章や第5章を引用しながら、研究の「情報的価値(意外性と確実性)」、「実用的価値」、あるいは「内的妥当性」、「外的妥当性」について考えてみた。その最後に述べたが、私はもう1つ、研究の「再利用価値」という概念もあってよいのではないかと考えている。 工業製品で言えば、「再利用価値」というのは「実用的価値」と違って、当初の目的とは違う形でそれが利用されることを意味している。3/17の日記にあるテニスボールの再利用などがその一例である。世の中には、実用的価値が高くても再利用が非常に難しい製品もあるし、逆に、実用的価値は低いが広範に再利用できる製品もある。 この「再利用可能性」というのは、心理学の研究の中でも特に事例研究の場合に考慮する必要があるかと思う。なぜなら、事例研究というのは、もともと利用価値の高い製品として外に出されるものではないからだ。事例そのものがすでに利用された状態であって、聴き手のほうは、その事例を再利用する立場にあると考えられる。 下山(1997、やまだようこ編『現場心理学の発想』.pp.53-62.)は、臨床心理学の主な研究法である事例研究法について 心理臨床学会の発表の大半を占める事例研究法は,現場の実践の研究法としては最も適したものであることは確かである。しかし,その方法論的特色を把握した上で使用しないと単なる事例報告に終わる可能性が高い。単に精神分析やクライエント中心療法の理論(仮説)をドグマとして受け取り,それをやってみたらこうなりましたという報告をしただけで,ある種の検証的研究をした気になってしまいやすい。その結果,自らの実践を心理学の方法として学問化する作業がなされないまま,学問をした気になり,自己満足は維持される。その場合,実践としても自己満足に終わって,創造性,発展性のないものとなる[pp.60]。という問題点があることを指摘している。そこでは発表者側の姿勢も大切だが、聴き手側にもそれなりの受信技能が要求される。「再利用価値」というのは、発表された研究それ自体の価値というよりも、発表者側と受信者側のインタラクションの中で新たに形作られるものと考えるべきだろう。 4/10の日記では、「研究の外的妥当性(=一般化可能性)」は「実用的価値」とは本質的に異なる概念であると述べた。ただ、元来、「一般化できる結論」というのは「誰でも利用できる結論」と同義であり、その意味においては、再利用しやすい価値と考えられないこともない。 もっとも、数学、物理学、化学などであれば、実証性や一般性のある発表こそに価値を見出すことができるのに対して、医療現場のようにあまりにも多様な要因が同時に関与する場面では、個別の事例から一般性を引き出そうとしても限界があるのは当然。また、仮に一般性が証明されたとしても、それを別の事例に機械的に当てはめることは殆ど不可能と言える。 となると、事例研究の価値は必ずしも外的妥当性によっては規定されない。むしろ、受信者のクリティカルな目を前提とした上で、再利用価値がどれだけあるかにもかかわってくるように思う。 なお、南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』は、今年度前期に行われる大学院特殊講義のテキストとして使うことになっている。近々、公用サイトのほうに、院生のリビューなども掲載していく予定である。 |
【ちょっと思ったこと】
「はやお機械」のセールスを断った私 自宅で昼食をとっていたところ、うさんくさいおばさんがチャイムを鳴らした。私がドア越しに「ご用件は何ですか?」と聞くと、「はやお機械から来ました」と言う。 私のアパートの玄関には、「布教、セールス、その他一切の勧誘、募金、署名は絶対にお断りします」というプレートがつり下げてある。私が、「セールスならお断りです」と怒鳴りつけると、「セールスではありませんが、....失礼します」と言って立ち去った。 一体何者だろうかと思ったが、しばらく経ってから、「はやお機械」ではなく、じつは「早起き会」の勧誘であることに気づいた。「早起き会」というのも、たいがいは新興宗教系の団体が主催しているので広義の布教活動にあたることは確かなんだが....。 死刑執行の映像中継その後 昨日の日記で、「執行場面を遺族に公開するというのはイスラム社会や内戦時を除き、あまり聞いたことが無いように思う。」と書いたところ、掲示板のほうで、hariさんから、 In the U.S. it is pretty common that the the survivors and victims' relatives watch the execution of the perpetrator.という情報をいただいた。どうもありがとうございました。 アメリカの死刑執行室に大きな窓ガラスがあることは何かのTV番組で見た記憶があるが、遺族や関係者に限定して執行状況がごく普通に公開されているということは全く知らなかった。今回の中継は、公開が異例なのではなく、関係者の人数が多すぎることが異例であったようだ。 こうした限定公開はどういう論拠、あるいは文化的背景に基づくものなのだろうか。死刑執行の有無さえ直ちには公表されない(←最近では改善されてきたようだが)日本とはだいぶ違うように思う。さらに情報を収集したいと思う。 |