じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] サザンカの絨毯。岡大事務局前の広場には紅白(正確にはピンク色と白色)のサザンカがある。このところの寒波で花びらが半分ほど落ちて絨毯を作っている。



12月20日(水)

【ちょっと思ったこと】

声は触覚から伝わる

 19時半からのNHK教育「にんげんゆうゆう」を見た。今回の話題は詩人の谷川俊太郎氏の「老いた母と言葉を交わす」。谷川さんは子供の時から母親に可愛がられて育ったが、その母親が年老いたある日、少し前に喋ったことをすっかり忘れたかのように同じ言葉を繰り返すようになった。それが痴ほうの始まりだった。

 症状が進むと、母親は一日に何度も「お父さんどこへ行ったの?」と聞くようになる。最初はいつも「大学に行っているよ」と答えるが、もはや意味を持った言葉の交換ではなくなる。そこで谷川さんは、「大学に行っているよ」ばかりでなく「歌舞伎座に行っているよ」とか、時には冗談っぽく「いま外国に行っているよ」などと返事に変化をもたせて、「宇宙人になった」母親との交信につとめる。「言葉は意味から始まっているのではない。音声による言葉は触覚から伝わる」と言っておられたが、詩人の谷川さんの言葉だけにものすごい重みを感じた。

 来年の春をメドに「ことば ルール 体験」というような仮題でシンポを計画しているところだが、このシンポでは、言語的教示の限界とそれに代わりうるものを追求したいと思っていたところであった。しかし、谷川さんが言っておられたような「肉声の混じり合い」は、もはや意味の交換としての会話ではなく、体を撫でたりさすったりするのと同じスキンシップになっている。言語的教示にいくら限界があろうとも、スキンシップとしての言葉の役割には変わらぬ意味があると言ってよいかと思う。
【思ったこと】
_01220(水)[心理]千禧年行為科学国際年會(2)内と外の随伴性、「日本的」vs「西洋的」という比較軸

 台湾で行われた“International Congress on Behaviorism and the Science of Behavior(行為主義曁行為科学国際會議)”の報告の第二回。今回は、初日の朝に行われた佐藤方哉先生の基調講演「A behavior analysis of Japanese culture」について感想を述べさせていただこうと思う。

 佐藤先生の講演(英語)は、行動分析の視点から、「文化」の基本を、行動随伴性、その随伴性によって形成・維持される諸行動、その諸行動の産物の総体として捉え、それらが世代を越えて1つのコミュニティの中で伝承されていくものであるとした。そして日本の文化を
  1. 個人的な弁別刺激よりも公共的な弁別刺激が目立つ
  2. 言葉を伴う言語行動よりも、言葉を伴わない言語行動が優勢
  3. 集団の中で目立ったり風変わりな行動をすることは滅多に強化されない
という特徴を持った随伴性であるとし、農耕民族型の文化であろうと位置づけた(以上は、ご講演と発表抄録を参考に長谷川が要約。)

 講演では、この視点に基づき、豆まきなどの日本の伝統的な慣習、「旅の恥はかきすて」といったフレーズ、昨今の電車における携帯電話使用やその自粛をよびかける車内放送などの実例を引用しながら、「内と外」に象徴される日本型の随伴性の特徴が紹介された、。

 この講演を拝聴しているときにふと思い出したのが、10/4に神戸大学・大学教育研究センターで行われた研究集会における椎貝博美・山梨大学長の基調講演であった。そこでは、大学の民族学的分析というタイトルで学長の位置に関連して
  • 日本のような農耕社会としての特質を強く持った社会で必要なことは、みんなが平凡に、かつそれぞれの力に応じて励むこと。大勢の共同作業なので情報はできるだけ早く構成員に伝達する必要があり、みんなが知識を共有し、円満に団結して努力することが安定な社会をつくることになる。現在、日本の国立大学の学長に基本的に要求されている資質は、このタイプである。
  • いっぽう、狩猟社会のリーダーの場合は、経験もさることながら、狩猟の第一人者であることが大切。情報は必ずしも共有されるものではなく、リーダーはその腕前が頼りなのであって、狩猟の腕前が落ちればそれはリーダーの終焉となる。外国では基本的に狩猟民族型のリーダーシップが要求され、実行されている。
  • 近年の大学改革で叫ばれている、「競争的環境」、「業績評価」、「授業評価」、「リーダーシップ」、「個性かがやく大学」などは狩猟社会型のリーダーシップを求める風潮。
というような比較をしておられた(上記はいずれも、配付資料に基づく長谷川による要約)。佐藤先生と椎貝先生が、結果的に日本と欧米の慣習について同じような視点から議論を展開しておられるのは、まことに興味深い。

 「日本vs欧米」という比較軸を持ち込んで複雑な現象を分かりやすく説明しようという試みはこのほかにも多方面で行われている。この日記でこれまでに言及した事例としては、
  • 自己高揚のアメリカ人、自己批判の日本人→1999年9月26日の日記で取り上げた北山忍氏の講演「自己の心理・対人・状況的基盤---文化心理学の視点---」
  • ヨーロッパ近代社会が生み出した近代的自由観は、個人を固有のものとして、つまりすべての関係性を断ち切っても、なお個人という実体が存在すると考えた。これに対して、その関係をすべて失ってしまったら、私という個人もまた成立しえないと考えることが大切。すなわち、自由を固有の個人が所有する権利としてではなく、自由な関係の創造のなかにとらえるという視点。→2000年6月18日の日記で取り上げた内山節の『自由論』
  • 英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」という発想→2000年11月28日の日記で取り上げた岩谷宏の『にっぽん再鎖国論 〜ぼくらに英語はわからない〜』
  • 日本語には人称代名詞は無い。その場における関係を自称詞、対称詞として用いる→2000年11月20日の日記から連載として取り上げている松井力也『英文法を疑う』
  • その他、日本型企業の再評価など→道田さんが2000年12月16日の日記で取り上げておられた荒井一博『文化の経済学』の論調など。
このように、全く分野の異なる研究者が同じような結論に行き着くということは、そこに何らかの真実があることを確信させるものとも言える。次回の紀要でこのあたりをまとめてみようかと思っている。

 これらの論調で注意しなければならないのは、たとえ日本人のご先祖が農耕民族型、欧米人の先祖が狩猟民族型であったとしても、それがダイレクトに現代社会に反映するとは考えにくいということ。それを血筋、伝統、文化などの言葉で言い切ってしまうことはたやすいが、それでは科学とは言えない。「日本vs欧米」という比較軸を科学的アプローチとして成立させるためには、今の社会で、何が違いをもたらしているのかを同定する必要がある。その点で、行動随伴性の違いに求めた佐藤先生、あるいは言語の違いに求めた岩谷氏や松井氏の論調は、より説得力を持つものと言える。