じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 大学祭の終了に時を合わせるように、農学部南側の銀杏の落葉が本格化。落ち葉の絨毯が広がる。



11月28日(火)

【思ったこと】
_01128(火)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(8)岩谷宏『にっぽん再鎖国論 〜ぼくらに英語はわからない〜』(1982年、ロッキング・オン社)を借りてきた

 11/20の日記の中で、『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)に記された、“英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”という発想」を取り上げた。その際に
 これは著者の松井氏のオリジナルの発想というわけでもない。岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』という著書にすでに記されているということだが、そちらのほうは絶版になっており、どの部分が岩谷氏の見解なのか確認しにくいところがある。念のため図書館で探してみようと思っている。
と述べたが、本日、やっと時間がとれて、図書館に行くことができた。お目当ての本は、4階の開架式の書棚に無造作?に置かれていた。何と初版本、学生の希望により購入というスタンプが押されてあった。(ちなみに絶版という情報は松井さんの本にそう記されてあった(p.46)だけであり、その後復刻版が出されたかどうかは不明)。

 巻末の著者略歴によれば、京城市(韓国)生まれ(昭和17年1月6日)、ロック雑誌「ロッキング・オン」同人。著名な英文学者かと思っていたが、御著書は「ロック訳詞集・世紀末解体新書」「ビートルズ訳詞集」「岩谷宏のロック論集」「ロックからの散弾銃」「ザ・ポップ宣言(仮題)」など。その道では著名な方なのだろうが、音楽界に疎い私にとっては全く未知の方であった。もっとも、ご出身は、「京都大学文学部卒業」とある。なんだ、先輩ではないか。

 さっそく借りてきた本をめくってみる。本文の書き出しはいきなり
なぜ I am boy.でいけないか。日本語では当然「ぽくは少年です」でよい。
となっており、松井さんの記述のルーツがここにあることを確認できた。

 私の一番の関心事は、英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」という発想のルーツがどこにあるのか。岩谷さんがどういうアイデアを出されていたのかという点にあった。絶版が事実であるとすると、手元に原書を置いて議論することが不可能になってしまうので、やや長めになるが、初めに岩谷さんの「モノ」、「コト」の定義に関わる記述を引用しておきたい。、
  • アル・ナイの成りたつのを「物」、アルしか成りたたないのを「事」と呼ぶことにする。(p.13)
  • 英語ではあくまでも「ないものはない!」のであるが、日本語では「ないこともある!」のだ。...............No.と「いいえ」は違うのだ! No.は「無」を指示するが、「いいえ」は、指示された事が、正しいか正しくないか、「正しくない事」を指示するのである。..........日本の世界は、日本語の世界は、なんでもかんでも、──ないこと、でさえ、ないこと、として──、とにかく"アル"という、豊かで抱括的で、安心の世界である。(p.17)
  • (日本語の)、言われた事が正しいか正しくないか、という認識の仕方は、現実的論理の世界であり、人倫の世界である。英語の世界には「世界」が前提されていない。「世界」がない。あるのは、個々のパーツ、部品としての「物」がアったりナカったりするだけである。..........(英語では「世界」すら、個別的なパーツである。.....(日本では、個々にアつたりナカつたりするパーツから世界が構成されているのではなく、むし ろ、完全な世界がつねに初めに前提されている。だから、そこでは、ナイことすら、ひとつの"アルこと"として安定・定着する。) (p.18〜19)。
  • .....英語の世界では、永遠ななにか、があったり、なにかが永遠だったりするのである が、日本には、この種の、「物」の永遠という観念はないのである。言い換えれぱ、日本には、《時間内(時間的)存在としての有限》と、これを超越する《超時間者(or 物)》という対立構造がない。(p.31)
  • 日本では、永遠が超越者(or 物)としてあったり、であるがゆえに特定の「物」に冠せられたりしないので、欧米人がともすれぱ日本人に対していだく"無節操"という感想の原因になる。しかしながら、だからこそ、むしろ日本人の方が、その日常生活感覚において、永遠を体現している、と言えるだろう。(p.31〜32)
  • 日本的感覚においては、「事」の時間内存在そのものが永遠である。すなわち、時間内存在としては、先祖から子々孫々にまでつらなる生の営みとして《いま・われ(ら)》が永遠であるし、空間内存在としては、「事」のかぎりない連鎖の拠点として《いま・ここ》が、つねに永遠である。(p.32)
次回に続く。

[11/29追記]こちらを読んで、アッと驚く。同姓同名の別人だと思っていた。今さらながら先入観の恐ろしさを実感。
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