じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 欅の黄葉。東京世田谷生まれの私にとって、欅は、武蔵野の面影を感じさせる特別の木になっている。この2年ほど、なぜか茶色っぽい葉が多く、黄金色の輝きに乏しいように見えるのだが、なにか異変が起こったのだろうか。



11月20日(月)

【思ったこと】
_01120(月)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(7)英語は「モノ」、日本語は「コト」という発想

 11/11の日記の続き。『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)の中の“英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”という発想」について考えてみることにしたい。

 これは著者の松井氏のオリジナルの発想というわけでもない。岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』という著書にすでに記されているということだが、そちらのほうは絶版になっており、どの部分が岩谷氏の見解なのか確認しにくいところがある。念のため図書館で探してみようと思っている。

 松井氏によれば、英語は「モノ」、日本語は「コト」という発想は、例えば「boy」という名詞に表れる。英語の「boy」は存在物としての少年というモノそのものだが、日本語の「少年」は、人間が赤ん坊から幼児、少年、青年、成人、老人となっていく連続的な過程の中の少年時代を表す。つまり、英語で「I am a boy.」というのは、何人もの少年というモノの1つとして私が存在していることを意味する。いっぽう日本語の「私は少年です」は「私はいま少年という時代にあります」というような意味。それゆえに冠詞は不要。

 松井氏の記述(上記の岩谷氏の記述の紹介)の中でナルホドと思ったのは、「Did't you have breakfast?」という質問の意味である。英語では朝食も1つの「モノ」になってしまうので、この質問は、「朝食というモノはあなたの前にありませんでしたか?」という意味となる。それゆえ、朝食を食べなかった場合は「朝食というモノ」を否定するので「No」という答えになる。食べた時はモノがあったのだから「Yes」と答えて当然。これに対して、日本語では「朝食をとらない」というコト自体が問題となる。この質問の日本語訳「あなたは朝食を食べませんでしたか?」というのは「朝食を食べないというコトがおこりませんでしたか」という意味となるので、食べない時は「はい」、食べた時は「いいえ」となる。確かにこう考えるとスッキリしてくる。

 「英語 VS 日本語」という発想が英語の理解にどれだけ役立つのかについては、もう少し考えてみたいところがあるが、この問題を離れて、「モノ」的に捉えるか、「コト」的に捉えるかという見方は、物事を扱う際に非常に異なった視点を与えることになると思う。

 ところで、「モノ」と「コト」は本質的にどう区別されるのだろうか。これについては種々の学問的立場があると思うけれど、直感的には
  • 「モノ」:比較的安定的で、場から独立した存在。いろいろな場に登場したり消滅したりしながら相互に関係を及ぼし合う要素。
  • 「コト」:文脈、時間、場などによって限定される特定の状態
という印象がある。例えば、ある病気を西洋医学的にとらえた場合は、病原菌とか薬といったモノをどう扱うかが主要な関心事となる。東洋医学の場合は、からだ全体の関係性の中で病気を捉えるという点で、コトとして扱っているように思われる。

 「モノ」か「コト」は、おそらく、心理学の研究においても異なる視点を与えることになるだろう。例えば、実験心理学で独立変数や従属変数という言葉を使う場合には、刺激や反応は限りなく「モノ」的に扱われる。しかしもし、操作している変数が文脈によって異なる影響を与えているとするならば、それらは「コト」として扱われなければならない。行動分析で使われる好子、嫌子はこのあたりがかなり曖昧に定義されており、例えばマロットの教科書では、好子(Reinforcer)は
Any stimulus, event, or condition
whose presentation immediately follows a response
and increases the frequency of that response
というように、限りなく「モノ」に近い「stimulus」に加えて、「event」や「condition」といった「コト」を含む概念として定義されている。しかし、好子をモノ的に捉えるか、コト的に捉えるかということはかなり本質的な差違をもたらすはずだ。このあたりは別の連載の中で論じていきたいと思っている。
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