じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] しつこくエンゼルトランペット。たぶん、一番の見頃。



10月10日(火)

【ちょっと思ったこと】

10個の英語だけで海外旅行?

 夕食時に「うっちゃんなんちゃん これでいいのだ英会話」という番組を見た。ホテルで突然の出来事に遭遇した時にどういう英語を使うかというのと、10歳と7歳の兄妹が10個の英語表現だけでシアトルの佐々木投手まで会いに行けるかという話題が面白かった。

 前半の話題では、お風呂の栓が無いということを電話でどう伝えるかという問題があったが、そう言われてみれば、plugなどという言葉は「試験に出る英単語」には出てこなかったような気がする。私ならどうするか、たぶん、タオルでも丸めて栓代わりに詰め込むだけで済ませてしまうかもしれない。

 後半の「10個の英語表現」とは「How can I get to 〜」など。番組では無事、佐々木投手からサインをもらえたという結末になっていたが、着いた日の食事はどうしたのか、町中で買った土産物が途中で消えたのはなぜか、などだいぶヤラセ的なところがあるような印象を受けた。

 「10個の英語」などと聞くと、私が中高生の頃に言われた「三語族」を思い出す。当時は「カネ、メシ、ウルセエ」の3語だったと思うが、今はどうなっているのだろう。
【思ったこと】
_01010(火)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(4):「達成」と「上達」

 白川英樹・筑波大学名誉教授がノーベル化学賞を受賞したという。先日のオリンピックの田村選手や高橋選手の金メダル獲得(9/17の日記9/24の日記参照)もそうだが、何かを達成したというニュースは人々に夢や希望を与えるものだ。先日の10/3の日記でも述べたように「達成」は当人の人生にとって大きな生きがいとなりうるものであろう。

 しかし、「達成」は本当は何を意味するのだろうか。「達成」それ自体が好子(ここでは「喜び」に置き換えても意味は通じる)の本質であるのか、それとも「達成」に付随して生じる様々な変化が好子になるのか。このあたりは慎重に考えたほうがよいと思う。

 「達成」それ自体に絶対的価値を見出す人々は、しばしば進化の話を持ち出す。つまり、大昔の人類に「目標達成型」と「無目的刹那型」の2種類のタイプがあったとする。絶え間なく変化する世界にあって、おそらく「目標達成型」のほうが生き残り子孫を増やす確率が高い。それゆえ、今の人類にとって「達成」はそれ自体、生得的な好子になっている(=「達成」が生得性好子であるような人類が生き残った)という考え方である。しかし、現代の人間すべてが「目標達成型」タイプでないことを考えるとこの説明はあまり説得力を持たない。そもそもそういう「行動→強化」パターンが遺伝子に組み込まれるという保障はどこにない。子どもの時から小さな目標を立て、それを達成するという喜びを何度も体験してきた人だけにとって、達成は強力な習得性好子(すなわち価値そのもの)として意味を持ってくるように思う。

 「達成」というのは、達成した瞬間よりも、達成目標に至るプロセスの諸行動を強化するところに意味がある。重たい石を河原から土手に運ぶ場合を考えてみよう。
  1. 石を100m運ぶたびに100円の報酬を受け取るというアルバイトを考える。運ばれた石はトラックに積んでどこかへ運び去られる。
  2. ボランティアで決壊した土手の修復のために石を運ぶ。
上記1.の場合は、完全な付加的強化随伴性、2.のほうは、石を運ぶたびに土手の修復が少しずつ進むという点で、行動内在的好子により強化される。個々の行動は単純肉体労働であるが、飽和化が起こることはない。

 ところで、ひとくちに「達成」といっても次の2種類のタイプがあるようだ。
  1. 達成それ自体に最大の意味があるもの。建築物の完成、農業における収穫、科学研究における発見など。
  2. 「外的な事物の完成」とは別に、その人自身のスキルを上達させ、行動リパートリーを拡大させる効果。
 今回の白川名誉教授の受賞は、白川氏の過去の研究業績に与えられたものであり、これにって白川氏ご自身のスキルが上達するわけではないので、おそらく上記の1.のタイプに相当すると思われる。オリンピックの金メダルの場合は、その選手がそれをもって第一線から引退するのであれば上記の1.であるが、その練習の成果を活かしてさらに連続受賞や世界記録達成を目指すというのであれば2.に相当するものと言えよう。

 車の免許取得、入試合格、各種の資格取得、学位取得などはいずれも2.のタイプの達成である。車の免許証は、額縁に入れて部屋の中に飾ったり、あるいは周囲から賞賛されるために取得するものではない。それを取得することで、一般道路を自由に通行することができ、通勤や運搬の利便性が増したり、ドライブを楽しむなど、今までに無かった多様な好子が随伴するようになる。入試の場合も、その学校に入学することで新たな勉学の機会が与えられることによって新たな好子が随伴するようになるのだ。

 こうして考えてみると、少なくとも2.のタイプでは、見かけ上は「達成」が好子になっているものの、実際には、「上達」や「行動リパートリー拡大」という形で総称される新たな変化こそがホンモノの好子を与えていることになる。抽象的に「達成」の価値だけを強調する「生きがい論」を物足りなく感じるのはこのあたりに原因があるのではないかと思う。

 10/3の日記でも例として取り上げたように、TVゲーム、特にRPG型のゲームは、この「達成」と「上達」を最も合理的に配置した人工的随伴性空間であると言ってもよいかと思う。そこでは「上達」や「行動リパートリー拡大」は、経験値増加、使える技の拡大・強力化、より強力な武具や防具の入手として具現される。多くの人々がこれに熱中する理由はここにある。

 では、TVゲームばかりに熱中している人は最高の生きがいを得られるのか、もしそうでないとすれば何が不足しているのか、また「達成」や「上達」を最高の価値とする「生きがい論」はそれで充分と言えるのだろうか、次回以降はこのあたりを考えてみたいと思う。
【スクラップブック】