じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 百日草の一種。花屋では「ジニア」、種苗カタログでは「スターブライト」などという愛称で売っている。花期は長いが、秋口からは株が大きくなり、霜で萎れるまでたくさんの花を咲かせ続ける。



10月3日(火)

【思ったこと】
_01003(火)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(3):生きがい論の行動分析/TVゲームはなぜ面白いか

 後期から「生きがい論の行動分析」というテーマの授業を始めた。行動随伴性の概念的枠組に基づいて「生きがい」を考えてみようという内容。この機会に、紀要や行動分析学会ニューズレターで発表した私なりの考えをまとめてみたいとも思っている。

 最初の授業では、私がしばしば引用する、スキナーの「幸福」についての定義から出発した。この定義はそのまま「生きがい」の定義と言ってよいのではないかと思っている。
Happiness does not lie in the possession of positive reinforcers; it lies in behaving because positive reinforcers have then followed. [行動分析学研究、1990, 5, p.96.] /生きがいとは、好子(コウシ)を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえに行動することである。
 スキナーの言わんとしていることは、「欲しい物を手にするだけでは決して幸せにはなりませんよ。幸せは行動の中にあります。それも、能動的に働きかける行動、そして結果(=好子)が伴う行動の中にあるのです」ということになるかと思う。

 さて、問題は、この定義だけで「生きがい」の十分条件になりうるかということだ。ここでまた私がよく例に挙げるのが、
労働の中に生きがいを見出せないサラリーマンが居るのは何故か?
である。「労働(行動)→給料(好子)」が上記の定義どおりであるにもかかわらず、なぜ仕事より趣味を優先したがるのか、なぜ仕事にストレスを感じたり脱サラを志向したりする人が出てくるのか?

 これに対する答えは、スキナー自身の著作の中にもあるが、簡単に言えば
  • 阻止の随伴性:「働いて、結果として給料を得る」のではなく「毎月もらえる給料を(解雇されて)失わないために、つまり好子の消失を阻止するために働かざるをえない。これは義務感、強制感をもたらす。
  • 付加的随伴性:物を作り上げたり、何かを達成するという行動内在的な好子の随伴が失われ、定められた時間、労働に束縛されることにたいして、雇用者から人工的に好子が与えられる。
という2つの特徴が、「働きがい」を失わせているというのが私のこれまでの主張内容であった。

 しかし、このうちの後者、「付加的随伴性」vs「行動内在的随伴性」という区別については、定義上きわめて曖昧なところがあり、更なる検討が必要であると考えている。

 例えばTVゲームで、あるダンジョンをクリアするというのは、付加的随伴性なのだろうか。ゲームの中で経験値を増やしたり、技を上達させたり、より強力な武具や防具を手に入れるというのは付加的随伴性なのだろうか。

 『行動分析学入門』(杉山他、1998、産業図書, p.135)では、内在的随伴性と付加的随伴性は
  • 行動内在的強化随伴性:行動に随伴して、誰かが関わらずに自然に好子が出現したり嫌子が消失する
  • 付加的強化随伴性:行動に随伴して、意図のあるなしにかかわらず、誰かによって好子が提示されたり嫌子が除去される
というように定義されている。
 この定義を形式的に当てはめれば、ゲームの中で随伴する好子は、ゲーム制作者によって与えられる付加的好子のようにも思える。しかし、実際にはゲーム制作者はソフトを作るだけ。プレイヤーの側にくっついていて、よくできた時に褒めたり得点を与えたりするわけではない。好子が随伴するのはあくまでプレイヤーの努力に依存している。ゲーム制作者は好子を与えるのではなく、楽しみを増やすような随伴性を設計すること、好子を随伴させるレベルを最適に設定することにあるのだ。制作者は好子出現の原因を作るのではなく、出現の境界値を設定しているにすぎないと言い換えることもできるだろう。

 同じことは他のゲームやスポーツにも当てはまる。プレイヤーが勝つのは行動内在的好子。もし付加的なものがありうるとすれば、子どものためにわざと負けてやるような場合だろう。

 この例にも示されたように、「誰かが関わらずに」と「誰かによって」の区別は、誤解を生みやすい。他にも、「ネズミがレバーを押した時に餌を与えるのは付加的か?」、「瓶詰めのフタを開けて中のジャムを取り出すのは付加的か?」などといった問題がある。「付加的であるがゆえに生きがいにならない」のではなく、「達成、上達、操作、拡大、進歩などと言われるような結果が伴わない好子は生きがいになりにくい」と考えたほうがスッキリするところもある。

 ここで少々脱線するが、スポーツやゲームで勝つということは、スキナーの定義をもじれば
ゲームの楽しみとは、勝利を手にしていることではなく、それが結果としてもたらされたがゆえにプレイすることである。
と言い換えることができる。もちろん、プレイ中に、そのプレイ自体に内在する楽しみ(スポーツであれば体を動かすこと自体、思い通りにボールが飛ぶなど)も随伴することを忘れてはならない。

 もう一つ、ゲームばかりしていて働かない人は真の生きがいを感じることができるのだろうか。これは食事で言えば「主食か、おやつか」という楽しみの違いにも関係してくると思う。このあたりも、講義の中で取り上げていきたいと思う。
【ちょっと思ったこと】

同時に満たすχが存在しない

 息子(中3)の数学の宿題の中に、こんな問題があった。数式らしく見せるために「x」の代わりに「χ」を使用。また、原題に合わせて機種依存文字の丸付数字を使用。
χについての2次不等式、@、Aがある。但しaは定数で、a≠1とする。
(a-1)(χ-1)(χ-a)<0..............@
χ2+6χ-a<0............A

@、Aを同時に満たす数χが存在しないように定数aの値の範囲を定めよ。
というものだが、これって結構難しい。息子の疑問は、学校からもらった正解に「0<a<1」の範囲が含まれていないのはなぜかというもので、これはミスプリだと思うのだが(どなたかお助けを!)、それはそれとして私自身が解いてみた時にはa<-9の範囲を考えていなかった。Aが絶対に成り立たないようなaの範囲は当然含まれるのであった。「同時に満たす数χが存在しない」というと@、Aそれぞれでまずχが存在する範囲を考えた上で重ならない条件を見つけようとしてしまいがちである。