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昭和30年代の写真日記

Copyright(C)長谷川芳典

私の子どもの頃の写真をスキャナで再生しながら、当時の想い出を語りたいと思います。
  • タイトルは昭和30年代となっていますが、始まりは昭和28年から、ずっと続けば昭和40年代まで含まれる予定。
  • 何年前の出来事かがすぐ計算できるよう、便宜上西暦で表示します。
  • 新しい写真を上のほうに載せていきます。
  • 肖像権の問題がありますので、本人以外の顔写真にはボカシをいれます。


【1958年12月】
ウィキペディアの当該項目には、
東京タワー(Tokyo Tower)とは東京都港区芝公園四丁目にある東京地区の集約電波塔である。1958年(昭和33年)10月14日に完成した。
という解説があるが、私が少々疑問に思っているのは、10月にはまだ完成していなかったのではということである。
この写真を貼ったアルバムには、昭和33年12月と記されており、よく見ると塔にはまだワイヤーが張られていて何かを運んでいるように見える。10月14日というのは、あるいは、塔の骨組みが出来上がった月日なのかもしれない。
当時父親が都立・三田高校の教員をつとめていたので、建設中の東京タワーも何度か見た記憶がある。また、子どもの頃は、世田谷の自宅の屋根からでも見えていたが、その後、乱立したビルの影に隠れていった。

【1958年11月10日】南極観測船「宗谷岬」出航前々日(1)
出航前々日に撮った写真(船の前で並んで立っているのは祖父と私)。

「宗谷」に関連する記事が2002年5月14日2004年1月20日のじぶんの日記にあります。

余談だが、越冬隊に置き去りにされたタロとジロの奇跡的な生存が発見されたのは1959年1月14日であるという。つまり、この時出航した宗谷が翌年正月に南極に到達した時の話ということになるかと思う。

【1958年11月10日】南極観測船「宗谷岬」出航前々日(2)
↑と同じ時に撮った写真をもう1枚。写真左端には、昔なつかしい自動三輪(ミゼット?)が写っている。

【1958年7月】
ビワの木に登るわたし
このビワは、あまり甘くはありませんが、毎年たくさんの実をつけていた(残念ながら今はありません)。
当時はテレビも、テレビゲームも無かったので、昼間は外でよく遊んだものだ。 大きな木のほか、塀、さらには屋根の上まで登ったりしていたが、もし落っこちても当然自己責任。
最近は、怪我をしては危ないという事なかれ主義で、児童遊園の遊具を撤去したり、小川や溜池は立入厳禁、野外教育施設の木登りも大人がついていないと禁止ということが多いように思われる、ま、大けがの危険のあるところは撤去・禁止するとしても、ちょっと血を流してガーゼを貼るくらいの怪我であるなら、むしろ適度に自己体験させておいて、リスク管理の精神を身につけさせたほうがよいのではないかという気もする。


【1958年7月23日の絵日記】
台風がやってきたという記載があった。
最近は便利なもので、デジタル台風の過去記録を調べてみたところ、ちゃんと台風195811号 (ALICE) が、この日に東京を直撃したという記録があった。

これより前にも、戦後には英語名の台風が次々と日本を襲ったと思われるが、私自身の記録としては、これが初体験ということになる。

【1958年7月25日の絵日記】
「ぼくは、なしのきのせんにんのおはなしをききました」とだけ書いてあって、どんなお話かすっかり忘れていたが、ネットで検索したところ、どうやら、聊齋志異にある「梨売りと仙人」のお話だった模様。当時はテレビは無かったので、たぶん、当時、毎回聴いていたNHKラジオ「お話でてこい」のお話ではないかと思われる。
出〜てこい、出てこい、出てこい、どんどこどん...という出だしで、お話おじさんが語ってくれたお話だったと記憶している。

【1958年7月】刀をさすわたし
当時は、赤胴鈴之助や少年マンガなどでチャンバラものが流行っており、刀をさすとそれだけで強くなったような気持ちになっていた。
その後、子どもが目を刺すと危ないといった理由からか、子ども向けのラジオやテレビからチャンバラものが姿を消していったような記憶がある。
手で持っているのは竹製の水鉄砲、後ろのほうには昔なつかしい縁側が写っている。


【1958年7月】生家の庭で昆虫採集をするわたし。
 この↓の「お勉強をするわたし」の写真に『昆虫図鑑』が写っていることにも見られるように、この頃は、昆虫に興味があり、いろいろな虫を捕まえて飼ってみたりした。といってもそんなに珍しい昆虫がいたわけではない。ごくありふれたアブラゼミ、カマキリ、アゲハチョウ、カナブンなど。稀にスズメガの芋虫を見つけて可愛がったりしていた。このほか、庭石の近くには蟻の巣がいっぱいあって、毎日、飽きもせずに働き蟻の出入りを眺めていたりしていた。



【1958年7月】お勉強をするわたし
 五線譜に何かを書き写しているようだ。左前方には小学館の『昆虫図鑑』がある。庭が広かったこともあり、もっぱら、庭の植物や昆虫にふれあいながら夏休みを過ごしていた。


【1958年7月22日】ズルを告白したわたし
 絵日記の2ページ目(1958年7月22日)には、家の中で「すごろく」で遊んだ絵が描かれてあった。
ぼくはまけるときがなくてぼくはづるをしてしまいました。でもくちにだしていわなかったのです。
と記されており、「ズル」を告白した最初の日記ということになる。但し告白は日記上だけとどまっており、口に出しては言わなかった模様。



【1958年7月21日】
 幼稚園・年長組の夏休みから開始した絵日記。私にとって人生初めての日記ということになる。本文を漢字交じりで翻訳すると、
7月21日(日) 雨降ったり止んだり
起床時間 6時20分
僕はパパと相撲を観ました。どちらが勝つか負けるか、当てっこをしました。若乃花が優勝しました。
就寝時間 8時10分
ちなみに、この時優勝したのは初代若乃花

 絵日記のほうは、夏休み中どころか、小学校低学年に至るまで、殆ど毎日書き続けた。このWeb日記も10年以上書き続けているところであるが、幼稚園時代から、三日坊主などと言われたことはなく、継続性と規則的生活だけが取り柄のわたしであった。

【1958年7月】鉄琴の練習をするわたし。
もとのプリント写真では背景は真っ黒になっていたが、画像処理ソフトで補正してみると、懐かしい襖や障子が浮かび上がってきた。銀塩写真の記録性はなかなかのものだ。

 ちなみに、この時座っていた椅子は今でも残っている。こちらの写真の右端参照。


【1958年6月7日】50年前の遠足バス
 幼稚園・年長組の時の春の遠足は、1年前と全く同じ「としまえん」であった。写真は、幼稚園近くの道路からバスに乗り込んで目的地に向かうところ。顔にボカシを入れているため見えにくいが、狭い車内の中、補助席を含めて、すし詰めで座っている様子が見て取れる。当時はバス自体のクッションも道路事情も悪かったので、さぞかし揺れたことと思う。車酔いなどで気分が悪くなる子どもも多かったと思われる。



【1958年5月】砂場で遊ぶ私
 この砂場では一度、度を過ぎたどろんこ遊びで服を汚し、「うめ組(1年下の年中組のクラス)に行って反省してきなさい」と数人の友だちと共に叱られたことがあった。叱られた子のうちI君は素直に梅組の教室に行って下級生たちの人気者になったが、私は、そんな恥ずかしいことはできないと、別の男の子と一緒に幼稚園から「脱走」して家に帰ってしまった。このことでかなり大騒ぎになったはずなのだが、どういう経過をたどったのか、今となってはさっぱり思い出せない。


【1958年5月】幼稚園通園風景
 幼稚園から集団で帰宅するところ(1958年4月または5月頃)。制服そのものは50年後の今でも大して変わらないが、後ろの板塀、ゴミ箱、未舗装の道路などは昭和30年代の象徴とも言える。


【1958年3月22日】
 幼稚園の卒園式の送辞の原稿。読み上げではなく、丸暗記した。当時はずいぶん長い文章だと思っていたが、実際は400字詰め1枚程度の短いものであった。子どもの頃から、私は、大勢の人の前でもあまり緊張することが無かったが、たぶん、こういう機会を与えられたことが訓練になっていたのだろう。

 ちなみに、文章の内容は幼稚園の先生や母親が勝手にこしらえたものであり、私のオリジナルではない。当然、「ざいえんじだいひょう」という意味など理解できるはずもなく、小学校に入ってからも「ざいえんじだいひょうの、はせがわよしのりです」などと自己紹介していたように記憶している。



【1958年3月16日】人生の初舞台
 初めての幼稚園・お遊戯会で舞台に上がったところ。といっても舌切り雀のおじいさん役で、スズメのお宿に招待されてスズメの踊りを鑑賞するというだけの演技であった。


【1958年1月5日】二子玉川園で撮影した「二見浦」の写真。
 二見浦は、2007年の9月に訪れたことがあった。生まれて初めてであったはずなのに「以前どこかで見たことがある」と感じたのは、たぶん、この二子玉川で見た「二見浦」の影響であろう。




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2004年10月6日 旧ジオシティより完全移行しました。