indexへ

昭和30年代の写真日記

Copyright(C)長谷川芳典

私の子どもの頃の写真をスキャナで再生しながら、当時の想い出を語りたいと思います。
  • タイトルは昭和30年代となっていますが、始まりは昭和28年から、ずっと続けば昭和40年代まで含まれる予定。
  • 何年前の出来事かがすぐ計算できるよう、便宜上西暦で表示します。
  • 新しい写真を上のほうに載せていきます。容量がいっぱいになったら順次削除します。
  • 肖像権の問題がありますので、本人以外の顔写真にはボカシをいれます。
  • 文中の[  ]内の日付は、執筆日です。



 50年前の皇居前広場(1957年12月23日撮影)。アルバムには「帝劇で、シネラマ『世界の七不思議』を観たと記されていた。また、当時はまだ、「皇居」より「宮城(きゅうじょう)」という呼称のほうに馴染みがあった模様(ウィキペディアによれば「宮城」という呼称は、1888年(明治21年)〜1948年(昭和23年)までの通称)。

 「帝劇」に関しては、ウィキペディアの当該項目には、
1923年の関東大震災では外郭を残して焼け落ちたが、横河民輔により改修され、翌1924年に再開した。1930年松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転向。SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となった。1939年、運営会社を東宝が合併し、翌1940年松竹の賃借期限が切れると共に東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻す。しかし1955年、舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じたが、1964年から翌年にかけての『アラビアのロレンス』を最後に解体。谷口吉郎の設計で新たに現在の帝国劇場が1966年9月29日に落成した。
と記されてあった。ちょうど「巨大映画スクリーン・シネラマが設置され」てから2年目の年末映画の鑑賞であったようだ。当時はカラーテレビはなく、また当時は海外旅行が解禁されていなかったので、「世界の七不思議」なるものを巨大スクリーンで観ることは貴重な体験になったものと思う。

 余談だが、12月23日と言えば今では天皇誕生日。4年前、たまたま上京していた時に、一般参賀で最前列に立つという幸運に恵まれたことがあった。その46年前に同じ場所に来ていたということは全く思い出せなかった。

初めてのクリスマス会で、「マッチ売りの少女」の読み聞かせに熱心に聞き入っているところ(1957年12月2日撮影)。但し、当時、作品に対してどういう印象を持ったのかは全く記憶に残っていない。

 クリスマスの頃は一年中でいちばんウキウキした気分になったが、サンタクロースの存在は一度たりとも信じたことがなかった。

 近くの若林中学校庭まで凧あげに行くところ(1957年12月頃)。この凧はバランス調整に失敗し、結局飛ばすことができなかった。けっきょく、私の子ども時代には一度も凧あげに成功したことが無かった・

 空高く凧あげを楽しんだのはそれから30数年後、父親になってからのことである。その頃にはすでに洋凧が流行しており、特段の技術が無くても簡単に空高く飛ばすことができた。

 50年前の東京・渋谷の忠犬ハチ公。正確な日付は不明だが、アルバムの同じページに貼られている他の写真から、1957年12月頃に撮影したものと推定される。

 ウィキペディアの当該項目によれば、
ハチの銅像は第二次世界大戦中に金属資源不足により供出され、現在のものは1948年8月に再建されたものである。...再建当時は駅前広場の中央に鎮座し北を向いていたが、1989年5月に駅前広場が拡張された際に場所移動し、同時に東(ハチ公口方向)向きに修正された。
となっている。確かに、写真のハチ公は、東横デパートを背に北方向を向いている。

 ハチ公前広場は、当時から待ち合わせ場所として有名であった。ケータイが無い時代には、事前に待ち合わせの場所と時刻をしっかり決めておくことが何よりも重要であったが、渋滞や事故などにより遅刻する場合がある。長時間の待ち合わせでイライラしている人にとっては、ハチ公像は多少なりとも慰めになったものと思う。

 もっとも、この広場脇は、各種政治団体の街頭演説にしばしば利用されており、まことに騒々しく、待ち合わせをするには大迷惑であった。そんなこともあって、私自身が待ち合わせにこの場所を使ったことは数回しか無かった。背景の東急東横店(当時の東横百貨店)西館は1954年(昭和29年)に増改築工事が行われたばかりであり、現在も景色はそれほど変わっていない。ハチ公の右側には「渋谷・東光ストア」の文字が見えるが、あのストアはその後「東急ストア」に改称された。しかし、こちらのサイトの店舗案内によると、渋谷駅前にはもはや店舗は存在していないように見える。また、ここから、渋谷駅西口広場方面に至る歩道脇には、アコーディオンを弾く傷痍軍人、くつみがき屋さん、ボロ服をまとった物乞いの人たちが座っていたのを思い出す。


自宅の庭で落とし穴を掘っているところ。このころから穴掘りに興味を持ち始め、中学生の頃には、深さ5m40cmの縦穴を掘って井戸水が出ることを確認したり、そこから横穴を掘って地下室を造ろうとして怒られたことがあった。ちなみに、このあたりの土地は、深さ70cmほど穴を掘ると赤土の層(関東ローム層)になる。

 初めての運動会(1957年10月13日撮影)。2年保育(年中組からの入園。当時は2年間の入園が一般的であったようだ)であったため、この時の運動会が私にとって初めての体験ということになる。ここの幼稚園は敷地が狭く、翌年度(年長組)の運動会からは、近くの城山小学校の校庭を借りて開催されるようになったと記憶している。


 50年前の江ノ島弁天橋付近(1957年10月1日撮影)。ウィキペディアの当該項目によれば、1958年に「鉄筋コンクリート製の現在の江の島弁天橋が架けられる。」とある。この写真には車道工事の現場が写っている。

 今でも記憶に残っていることとしては、 などなど。

 なお、藤沢市の正式な表記は「江ノ島」ではなく「江の島」となっている。



 50年前の江ノ島展望塔(1957年10月1日撮影)。もともとは、東京の二子玉川にあった旧陸軍のパラシュート降下訓練塔だったという。1951年に江ノ島に移設、アルバムには「平和塔」(正式には「読売平和塔」と呼ばれたらしい)と記されてあった。2002年春に営業を終了し、2003年2月に解体されたという。

 この塔には小学校の遠足でも登ったことがあった。移設からそれほど年数が経っていないのに、潮風に晒されているせいだろうか、床板の所々に隙間があってスリリングなところであった。



[写真]  京王遊園地遠足(1957年9月26日)の2回目。アルバムの中に、金網越しに多摩川の土手が写っている写真があった。ウィキペディアの当該項目によれば、遊園地の跡地の一部は「京王テニスクラブとなって現在に至っている。」という。これが正確であれば、50年前の写真はこのあたりである可能性が高い。

 写真下は、現在の多摩川土手(狛江→京王多摩川)の様子。写真の一番下の右下隅のあたりの土手が50年前と同じ場所である可能性が高いが、この写真を撮った時は、そのような記憶は全く蘇らなかった。

 ちなみに、当時のアルバムには、この日は、遊園地で遊んだあと梨園に行ったと書かれてあった。幼稚園児が自分一人では無理なので、たぶん、形だけの「梨もぎ」であったはずだ。


[写真]  50年前の京王遊園地(1957年9月26日)。元の写真は集合写真であったが、個人情報に配慮し、その上半分に写っている観覧車のみ掲載。
 ウィキペディアの当該項目によれば、
京王電鉄京王多摩川駅付近に1955年4月3日にオープン。1959年にはプールも開設され多くの客で賑わった。京王相模原線延伸のため閉鎖後は京王テニスクラブとなって現在に至っている。
という短い記述のみがあった。ネットで掲載したところ、京王多摩川駅周辺にかつて遊園地が存在していたことをご存知でしょうか。という記事もあった。この付近には京王フローラルガーデン(アンジェ)があり今年の春に2回ほど訪れたことがあるのだが()、そのすぐ近くに、50年前にすぐ近くにあった遊園地で遊んだという記憶は全く蘇らなかった。

楽天版の2007年2月8日及び、2月から3月の日記に何枚か写真あり。


[写真]  1957年8月頃。自宅で、おもちゃのピアノを弾いているところ。オモチャだが、黒鍵もちゃんと音が出たので「猫ふんじゃった」の演奏ができた。
 私自身は小学校4年頃から6年の夏頃までピアノを習っており、ブルグミュラーあたりまで弾けるようになった。その後、10年〜20年に一度ほど、何かをきっかけに練習を再開してみたりするが、最近7〜8年はピアノには全く手を触れていない。

[写真]  1957年8月頃。50年前の東京・文京区・小石川後楽園。岡山の後楽園だったら、四季折々、訪れているが(直近の写真はこちら)、東京の後楽園のほうは、この写真が撮られた時以降、全く訪れた記憶がない。案内サイトによれば「(小石川)後楽園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されています」ということだから、50年経ってもそんなに景色は変わっていないはずだ。

 写真を見ても、園内の記憶は全く無いが、園の外を、見慣れない赤っぽい電車が通ったことだけは思い出せる。但しそれが、開通まもない丸ノ内線だったのか、オレンジ色の中央線だったのかは不明。そのうち、再訪して確めたいと思っている。

[写真] 1957年7月頃。1957年7月頃。お隣の人を前に、鉄パイプを振り回して力自慢をしているところ。孫悟空のマネか。鉄パイプは古いガス管と思われる。撮影場所に生えているのはヤツデ、オモト、柿の木など。

[写真] 1957年7月。1957年7月。夏休み直前の通園風景。実家の庭にはトウモロコシ、桃などが植えられており、幼少の頃から、植物や昆虫に身近に接することができた。

[写真] 1957年6月3日。 幼稚園入園(←当時は、年中組からの入園が一般的であったようだ)後の最初の遠足は、としまえんであった。アルバムを見ると、翌年の年長組遠足でもここを訪れているが、何をして遊んだのか、全く記憶に残っていない。また、幼稚園遠足以外に訪れた記憶も全く無い。写真はどうやら、入口付近らしく、「豊島園事務所」と書かれた建物と、券売所が見えている。

 余談だが、「としまえん」は、東京都豊島区ではなく練馬区にある。名称は、豊島氏(豊嶋氏)が治めた練馬城の跡地に建てられたことに由来するらしい。子どもの頃遊んだ「二子玉川園」、「向ヶ丘遊園京王遊園地などが閉鎖されたなか、都心部にありながらいまなお健在で、多くのイベントが開催されているのはスゴイことだと思う。

[写真] 1957年4月。幼稚園入園式。但し、肖像権に配慮して、私以外のお顔はすべてボカしてある。なお、この幼稚園があった場所は、現在は世田谷図書館になっており、10年ほど前に立ち寄った時は、まだ、敷地の周囲の塀などに当時の面影があった。私が卒園した幼稚園と同じ名前の幼稚園は現在も世田谷区内にあるが、場所は離れており、そこに移転したのか、たまたま同名であったのかは確認できていない。

[写真] 1957年3月。バスの運転手さんごっこ。1957年3月撮影。運転席の雰囲気はよく出ていると思うが、なぜか左ハンドル仕様。右手でシフトレバーを握っている。



1958年1957年1956年1955年1954年1953年