じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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パソコンを葬る、蘇らせる(3)Sharp PC-MT1-H1

 連載3回目は、Sharpのノートパソコン、PC-MT1-H1仕様表では、OSはWindowsMeと記されているが、どういう経緯だったか、使い始めた時からXPであったように記憶している。

 このパソコンは、授業や学会等のプレゼン専用に購入したものであり、個人情報や試験問題・成績などの機密情報は一切扱わないようにしていた。この頃は、学会でプレゼンする時にも、会場で用意されていたパソコンではうまく動かないことがあり、鞄に入れてけっこう頻繁に運んでいたのだが、そのこともあって、液晶画面が圧迫され、画面がちらついたり、二重になったり、そしてついにはヒビが入ってしまった。写真の液晶画面の左上から右下にかけての曲線はそのヒビの状態である。また、ひどい時には画面全体が真っ赤になることもあった。これまで、ノートパソコンは、他にも2台、物理的損傷(ちょうつがい部分の不具合、液晶のヒビ)で使えなくなったことがある。以後、クッションつきのソフトケースではなく、100円均一などで売られているプラスチックのハードケースに入れて持ち運ぶように心がけている。

 なお、このマシンの場合、画面の不都合は液晶パネルだけのことであり、アナログRGB端子で外部ディスプレイに表示した場合は、何の問題もなく使用できた。授業やプレゼンの時は、プロジェクタに投映されるスクリーン画面だけを見ていても操作ができるので、CRT表示をoffにして使っていた。引退させた一番の理由は、液晶の不具合ではなく、パソコン本体の速度とメモリ不足により、サイズの大きいパワーポイントファイルの読み込みにあまりにも時間がかかったためであった。

 とにかく、液晶が壊れていてはノートパソコンとして使えないし、修理・交換すると新品1台が買えるほどの出費となるので、これを機会に葬る予定である。

 不定期で次回に続く。

1月23日(月)

【思ったこと】
_c0123(月)上野千鶴子特別招聘教授着任記念学術講演・シンポジウム(13)「現場と経験」vs「知識と理論」/問いを持つこと

 1月20日の続き。

 講演時間が限られていたこともあり、協セクターについての詳しい説明は省略された。このあたりは『ケアの社会学』を精読しないとコメントしにくい部分である。ちなみに、上野氏御自身は、この御著書をもって、協セクターの役割や意義をエビデンスに基づいて証明したと主張しておられるようである。しかし、御著書に挙げられた程度の内容では証明とは言えず、上野氏の協セクターに帯する片想いにすぎないとの批判もあるとか。もっとも1月9日の日記にも書いたように、私自身は、社会学において何を満たせば証明になるのかがイマイチ分からない。単に、主張にあてはまる事例を見つけてくればよいのか、主張から予測される変化を統計資料の中から引っ張ってくればよいのか。

 講演の終わりのあたりでは、当事者研究とは何か?について重要な見解が表明された。障害者学であれ、女性学であれ、当事者研究の基本的視点は「わたしのことはわたしがいちばんよく知っている。だから私に聞いてよ。」にあるという。要するに、研究者という第三者が外の世界からあれこれ主張しても不十分。当事者でなければ本当の研究には至らないという意味にもとれる。但しそれを言うならば、上野氏御自身はケアの受け手、与え手いずれの当事者でもない。いずれ、受け手の当事者になられた時にはさらに鋭い指摘がなされるかもしれない。

 このほか、当事者研究では常に抵抗勢力が存在する。当事者研究は論拠の無い信念集合ではない。しかし抵抗勢力は、中立性・客観性という点から、当事者研究は主観的であるとか、研究の代表性は何かなどと批判するが、上野氏によれば「エビデンスはたった一事例でもエビデンス」、そして「何のために誰のために」「誰の手によって」学問をするのかという視点が必要であると説かれた。また立命の大学院は現場におられる方が多いが、
  1. 現場と経験を持った人があとで知識と理論に出会う。
  2. 知識と理論を持った人があとで現場や現実に出会う。
という2種類の人が居た場合には、1.のほうが遙かに優位(←うまく聞き取れなかった)あるという。なぜなら、知識と理論というのはあくまで経験を説明するツールであるから。ツールというのはあとで身につけることができるが、ツールを持った人があとから現場を持つことは問いが無いので非常に困難、そういう意味で、教育の現場には問いを抱えた人に来てほしいというように締めくくられた。

 確かに、あらゆる学問において「問い」を持つということは大切であろうとは思う。但し、私自身は「問い」というのは必ずしも、矛盾や困難に関わる問いばかりではないとは思う。例えば、ある動物がどうやって個体を保持していくのかを研究する場合の問いは、持続的安定的な状態に関わる問いである。その動物が病気になって「どうやったら治るか」という問いを持たなければ研究できないというわけでもない。諸々の社会現象についても、社会的な問題や事件ばかりが問いではなく、安定的でごく当たり前のように受け止められている恒常的状態の中にもいくらでも問いは存在しているはずだ。

次回に続く。