じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



12月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
§§
2011年版・岡山大学構内の紅葉(20)落ちないアメリカフウ(モミジバフウ)の近況

 落ちないイチョウとともに、岡大七不思議(←長谷川が勝手に選定)の1つに数えられる「落ちないアメリカフウ(モミジバフウ)」の近況。昨年の写真が2010年12月13日の日記にあり。

12月18日(日)

【思ったこと】
_b1218(日)日本質的心理学会第8回大会(23)内田樹氏の大会記念講演(7)まとめ

 昨日の続きで、この講演についての感想・メモの最終回。

 内田氏の講演では、パワーポイントも配付資料もなく、もっぱらお話しされた内容をメモするだけであったため、不確かな聞き取りや聞き逃しもたくさんあったと思う。もっとも、メモに記されたキーワードでネット検索すると、ほぼ同じ内容がヒットするので、ああそういうことだったのかと思い出すことができる。

 例えば、私のメモで「フロントラインを守る人」と記したところがあり何の話だったかと「内田樹 フロントラインを守る人」で検索すると、こちらに、
司法や医療や教育はひろく社会的共通資本の中の「制度資本」にカテゴライズされるけれど、これらはいずれも「わからないはずのことが、わかる」という人間の潜在能力を勘定に入れて設計された制度である。
これらはいずれも「存在しないもの」とのフロントラインに位置する「歩哨的制度」である。 人間の世界の内部では「存在することが明証的であるものだけが存在する」「存在することのエビデンスの示されないものは、存在しない」というルールが適用されている。
「内部」はそれでよい。
でも、「存在しないものとのフロントライン」では、そのルールは通用しない。
そこはまさに「存在しないはずのもの」が「存在するもの」にかたちを変える、生成の場だからである。
というくだりがあった。また、同じリンク先の少し前のところには、
私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では記述できないものに囲繞されている。
私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線がある。
「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、手で触れることもできない境界線がある。
けれども、その境界線を守護するのは、私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。
誰かが境界線を守護しなければならない。
という記されているが、このことも講演でふれられていたと思う。講演の結論的部分は、最終講義と、パーティのお礼(2011.1.23.)に近い内容であったと記憶している。リンク先に記されているように、内田氏は「善行をしたものには報奨を、悪行をなしたものには懲罰を与える」という「幼児の神」に対して、「人間が人間に対して犯した不正は、人間が独力で、神の支援抜きで正さなければならない。」という「成人の信仰」を説き、
超越的な世界とこの現実の世界を媒介するのは、「公正で慈愛に満ちた世界を構築する仕事を、まず自分の足元から始めるひとりの生活者である」ということである。
私たちは私たちの手持ちの資源しか差し出すことができない。
そのささやかな資源を以て「世界をすみごこちのよいものにするための人類史的な作業」のどの部分を自分が担いうるかを吟味すること。
という形で、日々精進されておられるようだ。なお、今回のテーマの

現代日本の霊性と鎮魂〜受け継がれてきた癒やしの心〜

については、イマイチ分からない部分もあったが、内田氏御自身は「ユダヤ=キリスト教的な倫理を私自身の「日本的身体」の構造となじませる道筋をずっと工夫して」こられたようであった。

 以上、内田氏のブログからの引用で、今回のご講演内容をまとめさせていただいたが、私個人は無神論者であり、物事をあれこれ考える出発点において、神を前提にすることは全くありえない。もっとも、内田氏のいう「成人の信仰」では神の支援は想定されていないので、この世界を論じる限りにおいては、決定的な違いは見当たらないようにも思う。また、「世界をすみごこちのよいものにするための人類史的な作業」も同じ立ち位置で検討することができるようにも思える。しいて違いを挙げれば、私自身は、「世界を創造したのは神である」とは考えない。(地球という)世界は、ビッグバンの後の種々の物理的条件の偶然の中でたまたま生まれたものにすぎず、億年単位ではいつ消えるか分からない儚い存在にすぎない。人類はその中で、単純な生物から種々の自然選択の過程を経て今のように存在しているにすぎず、人類の種々の特性は、適応と偶然の産物であって、それ以上でもそれ以下でもない。そのことを踏まえたうえで、できるだけすみごこちのよい、「公正で慈愛に満ちた世界」を構築しましょうというのが私の考え。

次回に続く。