じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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富士山型の初氷。

 12月17日の岡山は、最低気温が0.2℃まで下がり、真冬の寒さとなった。写真は、初氷の切片をかざしてみたところ。こんな寒さの中でもキンギョソウがちゃんと咲いていることを示すつもりで撮ったので富士山型になっていることを全く意識していなかった。どうせなら、背景の半田山の上に重ねて、「半田山の上にそびえる氷の富士山」という構図にすればよかったが、氷が同じカタチに割れることは滅多にないかも。

12月17日(土)

【思ったこと】
_b1217(土)日本質的心理学会第8回大会(22)内田樹氏の大会記念講演(6)のろいと祝福

 昨日の続き。

 講演の終わりのほうで内田氏は、メディアに横溢している批評の言葉の99%は「のろい」であると指摘された。これに対して「祝福」の原型は「国誉め」にあるというようなことを言われた。この主張も何かの御著書に由来するのではないかと思いネットで検索したところ、どうやら、『橋本治と内田樹』(2008年)の中で、
「国誉め」というのは、小高い丘に立って、四囲の風景を仔細に叙して、「民のかまどはにぎわいにけり」と告げることである。山の緑がどれほど深いか、谷川の清流がどれほど透明か、鳥や虫の声がどれだけ多彩か、人々はどんな風に日々のたずきの道を整えているか、そういうことを淡々と記述することによって、「このように世界があることは、わりと奇跡的なことなんだよ」と教えてくれることである。同じ意味で「右に見える競馬場、左はビール向上」と歌ったユーミンも、「江ノ島が見えてきた、俺の家も近い」と歌った桑田圭祐も、「長崎は今日も雨だった」と歌った前川清も、「国誉め」の伝統をただしく踏まえている。それらの歌曲が「国民歌謡」として久しく歌い継がれているのは、それが「祝福」の本義にかなっているからだ。【ネットからの孫引き】
というようなことが記されているようだ。講演でも全く同じ内容であった。内田氏の講演というのは、パワーポイントも原稿も何も無しに、次から次への話題が飛ぶことが多いと思っていたが、おそらく、内田氏の頭の中には過去に喋った内容がパーツのようなカタチでしっかりと収納されており、ある話題について喋っているうちに次の話題が、旧式のカラオケボックスみたいに、脳内の収納庫から機械的に取り出されていき、いつまで経っても話題が尽きないという特徴を持っているように思えた。ま、それはそれとして、祝福の原型は写生であって、記述しきれない、記号化できない、というようなお話であった。

 内田氏の趣旨からは外れるかもしれないが、少なくとも政治の世界となると、政治家の討論の99%は相手をけなすことに費やされている。そういう「のろい」の応酬は聴いているだけでも腹が立つばかりなので、私は討論会などの番組は一切視ないことにしている。国内外の紀行番組が好きなのは、祝福に満ちているためかもしれない。

次回に続く。