じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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§§ 2010年版・岡山大学構内の紅葉(23)東西通りの紅葉

 東西通りの落葉樹(アメリカフウほか)は、大学構内ではいちばん後になってから紅葉する。今が見頃。

 ※すぐ近くのヤツデの花ごしから眺めた風景が楽天版(12/1付けにあり。

12月1日(水)

【思ったこと】
_a1201(水)日本質的心理学会第7回大会(5) 段ボールハウスは現代美術の作品か、路上生活者の宿か(2)

 昨日の続き。

 段ボールハウスに引き続き、ナントの遊歩道と物見台(2007〜2009年)の写真も紹介された。これは、ラヴォという村からロワール川まで、湿地帯の上に1キロほどの遊歩道を作るというようなプロジェクトであった。

 昨日述べた材木で家や史跡を覆うような作品も段ボールハウスもすべてそうだが、それらの制作のポリシーは、
  • 場の状況が作品を決定づける
  • 一時的な設営方法
  • その場にある素材で組み立てる
  • 制作プロセス全体が作品、作品行為となる
  • 共同制作(人と関わる)
といった点にあるという。であるからして、観客として、完成されたものをスライドで見ただけではプロセスも他者との関わりもなく、その作品の本当の価値は分からない、段ボールハウスが段ボールハウスにしか見えなくても当然であるとは言えよう。

 もっとも、上記のポリシーを踏襲したからといって、必ずしも芸術として評価されるかどうかは何とも言えないと思う。

 ここからは私の考えになるが、まず「場の状況が作品を決定づける」と言っても、作品を公共空間に「展示」するのか、それとも自宅の庭にひっそりと飾るのか、ということは議論しておく必要があると思う。数多くの人によって共有される公共空間においては、個人がいくら芸術だと主張しても、圧倒的多数の人にとってはそれが迷惑で不快な存在であればやはり撤去しなければならない。道路沿いの公共設備、フェンス、廃屋のドアなどに塗りたくされている落書きもそうだが、ああいうものは、公共空間を勝手に占有し、個人の価値観を押しつけようとするもので断じて許せない。いっぽう、公序良俗に反しない範囲で風変わりな衣装をまとって街角を練り歩くことは、公共空間を長時間にわたって占拠しているほどではないので、まあまあ許されることだろう。自宅の庭に段ボールハウスを作ってその中で住むのも自由である。

 次に、もし私が「作品」をポジティブに評価するとしたら、それは、造る人や利用する人の苦労や思いが反映したものでなければならないと思う。同じ段ボールハウスであっても、様々な苦労を重ねた人がやっとのことでこしらえたハウスであればそれなりの重みが出てくる。以前、NHKで放送された、「ひとりと一匹たち 多摩川 河川敷の物語」という番組を視たことがあったが、あそこで猫や犬たちと一緒に暮らす人たちが建てたハウスは生活がにじみ出ていて、それこそが芸術であるようにも思えた。

 それから、「制作プロセス全体が作品、作品行為となる」とか「共同制作(人と関わる)」というポリシーは、やはり、地元の人が積極的に関わり、その地域の風習や伝統行事などを活かしたものであるべきだとは思う。水のかけっこやトマトのぶつけ合い、ハダカ祭りなどもそうだと思うが、もともと全国あるいは世界の各所で行われている「奇祭」や「儀式」などには、宗教的な意味づけを取り去ってしまったら、実にたわいのない、子どもじみた行為が実に多く含まれている。しかし、それがいったん伝統として定着し、参加者の思い入れがあり、さらには観客を呼び込む力があれば、公序良俗に反しない限りは1つの文化として成立するのである。呼びかけに応じてたまたま集まってきた人が、数年程度の期間で何かを成し遂げたとしても、それだけでは「ああいうこともあった」という思い出話程度にしかならないのでは、という気がしないでもない。

次回に続く。