じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 2009年版・岡山大学構内でお花見(74)フジバカマ

 大学構内にあるフジバカマ(園芸種)が見頃となった。昨年の写真は、2008年10月17日の日記にあり。奥のオレンジ色のレオノティスの花や、ダンチクの大きな穂も昨年と変わらない。なお、左奥にあるコンクリートの煙突は、かつてのスチーム暖房用であったが(現在は未使用)、老朽化が進み崩壊の危険もありということで近々撤去されると聞いている。


10月13日(月)

【ちょっと思ったこと】

立命館大・衣笠と京都駅を結ぶ最短時間経路

 8月下旬の日本心理学会第73回大会の時にも感じたことであるが、京都駅から立命・衣笠キャンパスに向かうには非常に時間がかかる。渋滞のほか、市バスがバス停に止まるたびに発生する乗降時間、さらには乗降の間にすぐ前の信号が赤に変わり、交差点のたびに1回待ちするといった遅延が生じる。今回の場合も、京都駅から立命館大行きのバスに乗ったところ、1時間近くかかってしまった。

 おそらく最短のルートは、地下鉄の丸太町、今出川、北大路のどこかで下車して、バスに乗り継ぐことであろうと思うが、私自身が京都で暮らしていた頃とは路線や本数も大幅に変わっているはずで、うっかり下車すると乗り継ぎできない恐れもあり、往路では利用できなかった。

 立命館からの帰路はたまたま、堀川通りから三条京阪行きのバスが着た。地下鉄乗り換えのバス停は四条烏丸ではあったが、渋滞に巻き込まれると遅くなる。そこで、堀川鞍馬口で下車。地下鉄の駅のある鞍馬口駅まで歩いてみた。じつは、大学入学後12年あまりの間、私は紫明通りのすぐ近くに下宿しており、はからずも40年近く前の思い出にひたることができた。当時よく利用していた小山中溝郵便局は昔のまま(もっとも、大学に入ったころは確か「新町頭郵便局」という名前で今とは少し離れたところにあった)、丼物屋さん、電気屋さん、駐車場なども昔のままであった。当時よく利用していた銭湯はだいぶ前に廃業していたが、建物自体は残っており、また、入り口付近にある卓球場もそのままであった。

 ということで、元の話題から脱線してしまったが、市バスの堀川鞍馬口で下車して、地下鉄鞍馬口まで歩くというのは、京都駅方面への道路が混雑している時にはけっこう裏技になるかもしれない。北大路堀川から北大路駅まで歩くよりは若干近いはずだ。今回の所要時間は、立命館大から京都駅までおよそ30分であった。

 余談だが、往路のバスに乗ったあと財布の中を見たら、100円玉1枚のほかは、10円、5円、1円の小銭ばかり。万札では両替してもらえないだろうから困ったことになったと思ったが、小銭をすべてかき集めると、なんと213円で、220円の運賃にわずかに及ばない。しかしそのあと、カードケースをごそごそ探してみると10円玉がもう枚出てきた。このときほど10円玉のありがたさを感じたことはなかった。

※私自身は貧乏性のため滅多に利用しないが、立命館と北大路駅の間をタクシー利用すればいちばん早そう。4〜5人のグループなら、バス利用の料金と大差ない。
【思ったこと】
_91013(月)[心理]ガーゲン先生ご夫妻講演会(2)フェミニスト心理学(1)

 前半は、メアリー・ガーゲン先生によるフェミニスト心理学についての講演であった(昨日の日記の写真参照)。

 「フェミニスト心理学」という言葉は、日本心理学会のシンポジウムのタイトルとしても耳にしたことがあるが(こちらに参考文献あり)、私自身は全くの素人で、事前の知識は全く無かった。

 メアリー先生はまず、前回来日された時に、日本には、顔を布で覆い、ヘルメットをかぶって行進している人たちが大勢いたというような話をされた。最初は何のことだろう、バブル期のマンション建設の話だろうかと思ったが、前回来日されたのはなんと1970年代の初めの頃、ヘルメット姿というのは当時一世を風靡した全共闘運動であることが分かった。今回の聴衆の中には20歳代、30歳代とみられる方々も多数含まれていたが、ヘルメット姿などと言われても生まれる前の出来事である。何のコトやら頭に浮かばなかったのではないかと思う。江戸時代の武士がちょんまげで歩いているような光景と同じように受け止められているのかもしれないなあ。

 さて、メアリー先生によれば、フェミニスト心理学は、まさにそうした1960年代後半から1970年代、批判心理学(←クリティカルシンキングとは別)という形で誕生した。それは、科学一般、あるいは科学的心理学がvalue freeを前提としていることへの批判である。経験科学では、観察、論証、仮説検証、予測と制御、またこれらの累積によって真理に近づくという考え方が当たり前のように受け入れられているが、実際は、いかなる観察であっても中立にはなりえない。ということで、ここで主張されるフェミニスト心理学は、女性差別撤廃運動や男女雇用機会均等をめざす運動ではなく、明確に社会構成主義的立場に依拠した議論ということになると理解した。

 この考え方は、客観主義自体を否定しているわけではない。但し、客観的といってもいろいろな視点があり、どういう立場から物事を捉えるのかによって見え方が変わってくる。世の中一般でのネイミングなども、文化的、社会的なバックグラウンドを持っているという。

 メアリー先生は、その一例として、「girl」というネイミングを取り上げられた。後者の「girl」は女子大生に対しても使われるが、まだ未熟というニュアンスがあるらしい。そういえば、日本語でも学生のことは、「男性学生」とか「女性学生」とは呼ばず「男子学生」、「女子学生」と呼んでいる。最も「男子」、「女子」の「子」は、「子曰く」と言うくらいだから、必ずしも「子ども」という意味ではなさそう。日本語の場合にも「男らしいしゃべり方、女らしいしゃべり方」とか、「君とさん」による男女の呼び分け、夫のコトを「主人」と呼ぶ慣習など、取り上げることのできそうな事例はいろいろありそうだ。

 次回に続く。