じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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[今日の写真]

 日の出前の赤い雲のスジと月。月齢は24.2。


3月13日(火)

【ちょっと思ったこと】

岡山名物の光の輪、消失の危機?

 3月8日の日記に、岡山七大不思議の1つ、光の輪の写真を掲載した。これは、京山スカイガーデンの観覧車が西日に当たって光るというものであった。

 ところが、3月13日のローカルニュースによれば、スカイガーデンは5月6日(日)をもって閉園することになったという。このレジャー施設は1956年に開園、1998年にいったん閉園したが(1998年8月30日の日記参照)、その後「おもちゃ王国」が施設を借り受けて再開。入園者は例年6万人前後で推移してきたものの、雨漏りなどの施設老朽化により維持が難しくなったということである。

 閉園しても直ちに観覧車が撤去されるわけではないと思うが、私のアパートから「光の輪」が眺められる時期は、春分の日の1〜2週間前と、秋分の日の1〜2週間後の時期に限られている。ひょっとすると、今春で見納めとなるかもしれない。

【思ったこと】
_70313(火)[心理]第一回構造構成主義シンポジウム(3)池田氏の第一印象/養老孟司氏の特別講演(1)

 3月11日に早稲田大学で開催された

第一回構造構成主義シンポジウム:わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム

の感想の2回目。

 シンポではまず、池田清彦氏による開会の言葉があった。池田氏は、エントロピー概念を用いて、それぞれの国家はエントロピーを小さくしようと努力するが、どこかが小さくなると地球レベルで無秩序になるというパラドックスについてお話をされたと理解したが、一部はよく分からなかった。池田氏の御講演をナマで拝聴するのは今回が初めてである。ずいぶん型破りなスピーチをされる方だという印象を受けたが、どうやらこれが池田流のスピーチの本質的特徴であるようだ。あとで行われた鼎談でも、歯に衣を着せない辛辣な表現(もしくは放言、失言、暴言、...?)が毎分1回の割で出現するいっぽう、他の演者の方々も「池田先生はいつもヘンなことを言っている」と平気で皮肉っておられた。ここで何か悪口を書いても聞き流してくださるタイプではないかと思われる。お顔の第一印象としては、こちらの方に似ている雰囲気があった。お顔が似ているのではなくて「オレ流」のイメージが似ているせいかもしれない。

 続いて、ご存じ養老孟司氏の特別講演が1時間にわたって行われた。予告では
我々日本人の多くが「無思想という思想」をもっているということを自覚することが無用な信念対立を回避するためにいかに役立ちうるのか、またそれを深く自覚するための考え方について講演して頂く。
となっていたが、某大学の講義のシラバスを作ることに抵抗したと自ら語っておられたように、養老氏の講演というのはしばしば筋書きの無い方向に拡散する傾向があるようだ。構造構成主義とはあまり関係の無い話題が多かったような印象を受けたのは私だけだっただろうか。

 さて、その養老氏の講演ではまず、丸山眞男『日本の思想』を引用しつつ、日本には思想が無い、あるいは読売新聞の調査で「日本人の7割は無宗教」という結果が出たこと、般若心経の中に「無」という文字が1割以上出ていることなどに言及しつつ、『無思想の発見』の視点から持論を展開された。

 要するに、本当に思想を持っていれば意識されない。意識というのはモノではなく「はたらき」である。例えば、会場が突然暗くなり再び明るくなったとしても「電球が戻った」とは言わない。明るさはモノではなく「はたらき」だからである。よく「意識が戻った」と言われるが、これも別段、「意識」というモノが実在するという意味ではない、「はたらき」としての「意識」が戻ったという意味であることに留意する必要がある。

 このことに関連して養老氏は、「踏み絵は踏めるか」、「古くなった日の丸を雑巾にできるか」という事例にも言及した。

 このあたりのお考えは私も同感である。意識を実在物ではなく「はたらき」としてとらえるのは行動分析の視点に一致する。また私自身は、最近では、古くなって、今後使う予定の無いものはドシドシ捨てることにしている。モノはそれ自体は無価値である。価値というのはあくまで、人間とモノとの関わりの中で発生する。1月29日の日記にも書いたように、単に懐かしさをもたらすだけの物は、デジカメなどで映像媒体に置き換えたうえで捨てても構わないと思っている。


 次回に続く。