じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



9月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る
[今日の写真]
ハナズオウ(花蘇芳)がいっぱい種をつけている。この花は、岡山では4月下旬に赤紫色の花をいっぱいつける。種ができてみるとマメ科であることがよく分かる。

今年の花の写真は4月20日に掲載。2005年4月20日に大サイズの写真あり。

9月21日付けの楽天版じぶん更新日記にも書いたのだが、自分自身が歳をとるにつれて、美しい花ばかりでなく、種をつけて枯れ草(枯れ木)になったよう光景にも関心が向くようになってきた。



9月28日(木)

【ちょっと思ったこと】

9月最後の踏ん張り

 9月24日の日記に書いたような事情で、9月28日と29日は形式上は振替休日となっているのだが、のんびりと休んでいるヒマなど無い。相変わらず
  • 9月29日締切の個人評価データのWeb入力
  • 10月2日締切の紀要論文執筆
  • 10月第一週の授業準備
  • 書けん申請書のための資料収集
の作業に追われている。

 このうち、9月29日締切の「個人評価データのWeb入力」は基本項目の入力はすでに終わっているが、個別の授業改善計画などはまだまだ未入力箇所が多い。気がかりなのは、締め切り日となる29日、アクセス集中で相手方サーバーがパンクしないかということ。ま、パンクした時にはそれを口実に来週に持ち越せばエエか。

 紀要論文のほうは、400字詰め48枚が標準なのだが、すでにこれを上回る60枚分を執筆。あと5〜6枚で完了するので、何とか29日のうちに提出できそうだ。締切は10月2日までとなっているが、1日には東京出張の予定があるので、何としても29日のうちに書き上げておきたい。

 締切前になると何とかまとまりのある原稿が完成できるというのは、10年近くほぼ毎日Web日記を書き上げていることで身に付いた特技かもしれない。内容はともかくとして。

 「書けん」は学内「添削」がまだ届いていないので「書けん」。授業準備は月曜以降に持ち越し。

【思ったこと】
_60928(木)[心理]日本教育心理学会第48回総会(10)対話的自己論(2)デカルトを超える人


●対話的自己論(The Dialogical Self)の適用・発展可能性

というシンポの感想の続き。




 さて、企画趣旨説明によれば、このシンポは、

 対話的自己 デカルト/ジェームズ/ミードを超えて(新曜社|2006年 09月発売|ISBN 4788510170) 本体価格:4,200円(税込:4,410円)

というハーマンスらの本を翻訳した人たちによって企画されたものということであった。さっそく注文させていただいたが、まだ手元には届いていない。

 ところでこの訳書のタイトルを見て思ったのだが、たぶん私の関心空間内のことだとは思うが、最近、「デカルトを超えて」というフレーズをやたら目にするようになったような気がする。Googleで「デカルトを超えて」を検索すると8390件もヒットする。デカルトはそんなに超えなければならない存在なのだろうか。デカルトを知らなければ超えようもないという気もするのだが...。

 これは、たぶん、心理学が知らず知らずのうちにデカルトの影響を受けてきたことによるものかもしれない。

 例えば、ガーゲンの本には
...では、この絶望的な結論を免れる方法はあるだろうか? 私の考えでは、心理学が主客二元論を前提とする限り、そのような方法はない。すなわち、心理学は、知らず知らずのうちにデカルト的世界観を受け入れ、知る主体と知られる客体、精神と物質、意識と自然の間に明確な一線を引いてきた(第1章を参照)。こうした二元論は、自明のものであった-----それは、心理学に深く沈澱した常識の一部であり、より一般には、西洋文化の常識でもあった。しかし、この区別に根拠はあるのか? その根拠は、何に基づいて正当化できるのか?
【永田素彦・深尾誠訳(2004):社会構成主義の理論と実践-----関係性が現実をつくる, ナカニシヤ出版. 162頁】
などと書かれており、とにかく、デカルト的世界観を克服することが新しい心理学の出発点になるという考えは強い。




 この他、最近読んだ本の中では

〈心〉はからだの外にある 「エコロジカルな私」の哲学

という本でも、カバーの裏には「デカルト的発想を覆す」などと大きく書かれてある。

 じつは、少し前、哲学の先生(哲学・フランス思想史:デカルト哲学の思想史的検討を中心に研究)と、いま挙げた本や昨今の「デカルト批判ブーム」について話したことがあった。この先生は決してデカルトの信奉者ではない。デカルトが偉大であればこそ、それだけ批判も出てくるのだろうということであった。

 しかしとにかく、私なんぞは、心理学の外の世界の「大哲学者を超える」などという畏れ多いことは、到底口にはできない。ま、せいぜい、「大哲学者が○○と語った部分については...」ぐらいにとどめておかないと、その道の専門家から「その哲学者の原書をどれだけ読んだことがあるのか」などと攻撃を受けてしまうだろう。とにかく「超える」を標榜するからには相当の覚悟が必要だと思う。

 ということで、すっかり脱線しつつ次回に続く。