じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] ずくなし日記(4/19)でハナズオウが紹介されていた。ハナズオウだったら、私の散歩道の途中でも一株咲いていると思って、さっそくカメラを向ける。新緑との補色関係のコントラストが美しい。 [今日の写真]


4月20日(水)

【ちょっと思ったこと】

帰納法的発想と演繹法的発想

 少し前の某授業で、帰納と演繹と生起条件探求という話をした。

 データの基づく実証研究は、原則として帰納法。多変量解析、特性論的な見方や、分析的帰納法などもこれに含まれる。

 いっぽう、実験的方法というのは、研究者本人が自覚しているか否かにかかわらず、演繹法的な論の立て方をすることが多い。要するに、ある種の理論やモデルから仮説をたて、予測を行い、実験的証拠(もしくは反例)を得る。これを厳密に適用したものとしてはハルの仮説演繹的体系があるが、もはや歴史的遺物となってしまった。また、類型論的な物の見方もこちらに含まれるように思う。

 生起条件探求というのは、「ある法則の及ぶ範囲を広げ、その生起条件を確定するための研究」という行動分析学的な研究スタイルである。

 帰納か演繹か生起条件探求かという議論は、実際に研究を進めていく上ではあまり意識されない。しかし、何かの議論がかみ合わなくなった時に原因をさぐってみると、じつは「帰納 vs 演繹」という発想スタイルの違いが根底にあった、ということに気づくことがある。

 ウェブログなるものが登場し、いろいろな方の意見をネット上で気軽に拝聴できる機会が増えてきたが、なかなか主張がかみ合わないことも多い。どうやらこの場合も、「帰納的発想 vs 演繹的発想」が意見のすれ違いをもたらしている可能性があるようだ。

 例えば、某国で起こった反日デモをどう受け止めるかという場合、演繹的に物事を考える人は、「某国政府」、「某国の人たち」、「日本政府」、「日本人」について、まず一貫した理論を立てようとする。そうして、ある時にある場所で反日デモが起こった場合には、それを、自分の理論に合致する一事例として扱おうとする。

 いっぽう、帰納的に物事を考える人は、反日デモがどのくらいの規模で起こったのか、デモに参加していない人やデモに反対している人がどのくらいいるのかということにも目を向けようとする(4月17日の日記などもこれに含めることができる)。1つの出来事をなるべく多面的にとらえ、いくつかの要因の組み合わせでそれを説明しようとする。

 つまり、どちらの立場でも事実は事実として受け止める点では変わらない。しかし、それを理論に一致する事例として注目するのか、それとも、まずは事実ありきとした上でそれを複合要因で説明しようとするのかという点で、そのあとの処理の仕方がまるっきり違う。これでは議論がかみ合わないのは当然である。

 一般的に、政治に関わる現象は演繹的に、流行、売れ筋、(演繹的方法では全く説明がつかないような)珍現象に対しては、帰納的アプローチがとられることが多いように思う。どちらが正しいかではない。けっきょくは、どちらのほうが予測の力があるか、多くの現象をどれだけ簡潔に説明できるのか、ということで淘汰されていくことになるだろう。

 演繹的な発想スタイルをとる人は、原則や一貫性を重視し、長期的な展望を示すということに長けているが、半面、物事を固定的に捉えがちであり、自分の主張に都合のよい事例だけを集めようとする欠点がある。いっぽう、帰納的な発想スタイルをとる人は、物事を多面的にとらえ、批判的思考(クリティカルシンキング)にも長けているが、半面、一貫性があやふやで、「あれもある、これもある」の優柔不断な態度をとることが多く、短期的視点だけで物事を解決していこうという欠点がある。世の中にはどちらのタイプも必要であるが、両者の影響力の強さがどのくらいの時に最適なバランスと言えるのかどうかは分からない。