じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 岡大本部棟前の大ツツジ。昨年4月23日の日記に同じ写真が掲載されており、同じ時期の開花であることが確認できる。その時に調べた限りでは、キリシマの一種「今猩々」という品種の可能性が高い。


4月23日(金)

【思ったこと】
_40423(金)[一般]志の公共性は「自己責任」とは別問題

 イラクで人質になった日本人5人が解放されて一週間が経った。この問題をめぐっては、私がマイニッキ才人に登録させていただいている250のWeb日記でもさまざまな立場からのご意見が出され、大いに勉強になった。私自身の考えは16日の日記に記した通りであるが、その後に思ったことを追記しておきたいと思う。

 まず、行動計画に軽率な面があったとはいえ人質になった5人は何ら悪いことをしたわけではない。無事に帰国できたことは率直に喜ぶべきであって、それらの人々や家族に対して批判を浴びせるのはどうかなあと思う。

 しかしその一方で、「人質になった人たちはみな立派な志をもっていて自己を犠牲にしてまでイラクの人たちに尽くそうとした」、だから「自己責任を問うべきでない」、だから「国が救出にお金をかけるのは当然」という主張がなされていることには少々違和感をおぼえる。

 私自身の率直な受け止め方としては、エベレストの頂上付近で猛吹雪にあって身動きが取れなくなった登山者と、今回人質になった人たちの自己責任は同じレベル。国としての救出責任も同じ程度でよく、マスコミも同じ程度の重みで報道すればそれでよかったと考えている。

 確かに、エベレスト登頂とイラクでのボランティアでは「志」の質が違う。前者は、きわめて私的な志であって、それが達成されたからといって誰かが救われるわけではない。その点、後者はきわめて自己犠牲的であり公共性がきわめて高い。しかしそうは言っても、公共性が無いという理由で、ある志が低く見られたり批判される謂われはない。他者に迷惑を及ぼさないという大前提さえ満たせば、私的な冒険でも宗教的修行でも変態趣味でも何でも認め合い、尊重し合うというのが今の世の中であるはずだ。

 しかし、いずれの志にあっても、リスクを選ぶことには自己責任が伴う。例えば、私などは全くの娯楽目的で海外の山や辺境地域に旅行することがあるが、その際には、事故や病気に遭った場合の救援費用、家族が現地にかけつける費用、死亡補償に必要な保険にちゃんと加入して出かけることにしている。もちろん、保険をかけただけで免罪ということにはなるまい。現地では、健康管理には最大限に注意しているし、危険な場所には近寄らないようにしている。

 海外で人助けのボランティアをしたり、現地の真実を伝えようとする場合、そんな大名旅行のようなことはできないと言われるかもしれないが、そうは言っても、行動計画は慎重でなければならないし、万が一の時にも、国の力を借りないで脱出できるくらいの準備はあってよいのではないかなあ、と思う。




 私的な志よりも公共的で利他的な志を尊ぶ、という教育はあってもよいと思う(あまり極端になると国家主義教育になってしまうが)。ただ、公共的とか利他的というのは、「〜したい」という気持ちだけではダメで、やはり、緻密な計画と実効性をもち、最終的には、プロセスと成果の両面から評価されるべきものだと思う。

 ベトナム戦争が激化していた頃、私はちょうど高校生であった。当時、私は、清水谷公園から日比谷公園までの「ベ平連」主催デモや、新宿駅西口の歌声集会に参加したこともあったが、その一方、政治に全く無関心で勉学や恋愛に熱中しているようなクラスメイトもたくさん居た。当時の私にとって、ベトナムであれだけ多くの人たちが殺されている時に、何も意思表示せず利己的に振る舞うということは許せないことであった。ところが、興味深いことに、そういう「利己的」に振る舞っていた人の何人かはその後、大学教員になって、社会的弱者の支援をしたり、テロを武力で防ごうというやり方に反対を表明したりしている。ご隠居っぽい言い方になるが、若者たちよ、人生、長い目でみればよく、私的か公共的かなどということは、そんなにあせって深刻に考えなくてもよいぞ、と思ってみたりする。