じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] 吹屋ふるさと村・広兼邸と柿の実。広兼邸はお城のように見えるが、銅山とベンガラで巨大な富を築いた庄屋の屋敷であるという。とはいえ、泥棒や不満分子も多かったのだろうか、入口には門番部屋や不寝番部屋が配置されていた。石垣の真上は、あるじではなく、使用人たちの住まいとなっており、右から、下男部屋、番頭部屋、さらに写真には写っていないが、厠、下女部屋、厩、農作業場と続いていた。


11月17日(月)

【ちょっと思ったこと】

処方箋1040円也

 9月18日の日記で、「医師の処方にしたがって、コレステロールを下げる薬を毎日1錠服用することにした」と書いた。それ以降毎日1錠(リポバス錠5)ずつ欠かさず飲んでいるのだが、本日、薬が切れたので、慌てて次の30日分を貰いに行った。

 しかし、服用も3カ月目に突入となると、だんだん面倒になってくる。周知のように、処方箋は30日分までしか出せないことになっているというが、毎月病院に通うのは少々くたびれてきた。しかも、処方箋を貰うだけで病院には1040円を支払わなければならない。薬局に支払う2180円と合わせて、毎月3220円ずつ払うというのもだんだんバカバカしくなってきた。

 薬と言っても、症状の変化や効き目をチェックしながら医師の判断で少しずつ中味を変えていくというならば、病院通いの意味も分かる。コレステロールを下げる薬のように、何カ月も飲んでやっと効果が現れるという薬についてまで、毎月、紙切れ1枚の処方箋代に1040円ずつ支払うのは不合理であるように思う。

 1日1錠の処方を2錠分に増やす操作により実質2カ月分を処方してくれる病院もあるとか、電話一本で「お変わりありませんか?」「ありません」と応答するだけで処方を受け取れる病院もあると聞くが、いずれにせよ、診断なしの処方でお金を取るというのは腑に落ちない。それと、病院に通えば、風邪ひきの患者もいる。そんなことでインフルエンザやSARSをうつされたのではたまったものではない。

 11月6日の日記で、米国とカナダで処方薬の価格が異なり、米国民が国境を越えてカナダまで薬の「買い出し」に行ったり、ネットで薬を買ったりしているという話題を取り上げたことがあるが、そういう「節約」の気持ちも分かるような気がする。ま、基本は、薬に頼らない生活をすべきなんだろうが。

【思ったこと】
_31117(月)[教育]鹿大FD研修会(5)評価は何のためにするか

 鹿児島大学で行われた「FDワークショップ」の感想の最終回。11月8日朝のミニレクチャー後半(長谷川自身が担当)は、「評価は何のためにする?」という話で締めくくった。

 この話題を取り上げた最大の理由は、大学改革で「評価システム」の導入が重視される反面、そもそも何のために評価するのか、評価することで何を変えることができるのか、といった議論がおろそかになることで「評価することは良いことだ」が一人歩きする恐れがあると常々感じていたためである。

 では、評価は何のためにするのか。もちろん対象によっていろいろ異なるが、評価自体が目的になることはない。
  • お年寄りにあるセラピーを実施する場合、介入の効果を評価する必要がある。この場合の最終目的は、そのお年寄りの健康状態を良好に保ち、QOLを少しでも向上することにあるのだが、1つのセラピーの効果が良いことずくめであることは稀だろう。従って現実には、最終目的が達せられたかどうかを評価するのではない。時間的コスト、人的コストなどを考慮しつつ、そのセラピーを継続するメリットがデメリットを上回るものであるかどうかを判断するために評価するということになる。これは、治療効果についても言えるだろう。
  • 農場を共同経営している人達が生産物を働きに応じて分けようと決めたとする。この場合、「働き」の評価は、分配という目的のために行われる。





 では、成績評価についてはどうだろうか。ここでは、特に、

(1)教育の質の保証
という側面と、
(2)具体的な努力目標
になりうるという側面を重視する必要があると思う。

 このうち(1)は、この学生はこれだけのことを学んだという「品質保証書」のようなものである。大学が発行する成績証明書がこれにあたるが、場合によっては、国家資格や認定資格のような形で試験が行われる場合もあるし、「免許」という形で特定の行為が公的に求められる場合もある。

 いっぽう(2)のほうは、学ぶ側の具体的な努力目標になる。例えば、難読漢字など読めなくても日常生活に支障はないが、「漢字検定」で進級をめざすということを励みにしている人もいる。大学の授業で、定期的に評価が行われフィードバックされていくことは、勉学の励みになるはずである。




 次に学生による授業評価の場合はどうか。この場合も

(1)授業の質の保証
という側面と、
(2)授業改善の具体目標とする
という、教員側の努力目標という側面がある。

 (1)は、欠陥授業を無くし、よい授業を誉め、お手本となる授業に学び、大学全体としての教育の質の維持と向上をめざすために必要である。評価というと一般には平均値ばかりが一人歩きしがちであるが、散布度や質的な評価も重視していかなければならない。

 (2)は、教員個々人ばかりでなく、実施責任をもつ教育組織が日々点検し、具体的な獲得目標を立て、点検していく必要がある。このあたりは、まさに「下りのエスカレーターを駆け上がる」ような努力が必要であり、ちょっとでも油断するとたちまち不活発になる恐れがある。

 よく、授業評価アンケートを教員の個人評価に使うのはよくないとか、ぜひ使うべきだといった議論があるが、これも、最終的に何を目ざすのかを明らかにして行うべきである。教員の個人評価によって給与に差をつけることは可能だが、これは、上に例として上げた農業生産物の分配とは明らかに趣旨が異なっている。給与に差をつけるというのは、「改善努力を正当に評価」することによって、その取り組みがますます活発になるための手段として有効に利用されなければならない。給与に差をつけなくても、表彰や改善援助などが適切に行われるならそれに越したことがない。とにかく、個人評価は最終目的ではなく、ある種の強化システムを発動する際の客観資料として用いられるべきである。

 評価自体がよいとか悪いというのは、心理学の尺度でいうところの、信頼性や妥当性に関わる問題である。それはそれで慎重に検討するとして、その後で重要になってくるのは、評価システムを、行動強化システムにどう反映させるのかという議論であろう。その議論を怠って、「ただ、評価をやりました」というだけでは、古文書づくり、あるいは化石づくりをしているのと変わりない。




 評価を行って「成果を示す」ということも同じように受けとめていく必要がある。大学内でおこなわれる、自己評価、外部評価、第三者評価などは、しばしば、立派な報告書としてまとめられるが、それを作っただけではいま述べた古文書づくりに励んだだけに終わってしまう恐れがある。

 仮に報告書をまとめるにしても、実施回数や参加人数だけを記すのではなく、どこがどう変わったのか、何が新しくもたらされたのかを示し、行動強化プログラムと対応させながら今後の方針を決めていく必要がある。




 健康診断は、検査数値を正常におさめるためではなく、自分の健康保持のために行うもの。我々はQOLの指標を上げるために生きているわけではない。TOEICのスコアを上げるのはよいが、それが英語学習の最終目的ではない。繰り返しになるが、評価は最終目的ではなく、あくまで手段である。