じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

3月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] サクランボの木の花が咲き始めた。彼岸桜の一種なのでソメイヨシノよりは10日ほど早く開花する。今年はかなりのサクランボがなりそうだが、ぜんぶ野鳥に食べられてしまうことだろう。ま、それはそれでいいんだが。


3月18日(火)

【思ったこと】
_30318(火)[教育]大学教育研究集会/大学教育改革フォーラム(4)大学教員の心理的充実感とコミュニティ心理学

 昨日に引き続いて、午前中に行われた第2回大学研究集会について感想を記していきたいと思う。今回は、3番目の発表に関連して、大学コミュニティという概念、さらには大学教員の心理的充実感について考えてみたい。

 まず、話題提供の内容を私が理解した範囲でまとめると[抄録からの長谷川による要約引用]
  • 「教員資質開発」の実施そのものが目的と化してしまい、教員自身の心理的充実感(Psychological sense of well-being)を喪失させてしまう結果が多く、主客転倒。
  • 授業評価では、教員個人の資質や能力はもちろんだが、カリキュラムや教学制度の影響、クラスサイズなども無視できない。
  • 大学教員の心理的充実感は、コミュニティ感覚の影響を強く受けている。
  • 従来のFDの文脈では「犠牲者責め」を行うことが教員の心理的従属感を低下させ、教育に対する姿勢をむしろ悪化させる可能性がある。
  • 次世代型のFDプログラムでは、教員個人の資質偏重を再検討し、教員、学生、大学行政部を視野に入れた相互作用を発展させる必要がある。
 発表を拝聴して、まず、「学生による授業評価」ではなく「学生による授業効果調査」という呼称が使われていた点は、なるほどと思った。「授業評価」というと、どうしても、教員個人やカリキュラムの妥当性を評価するというニュアンスが強い。言ってみればレストランに星印をつけるようなものだ。しかし本来、授業は学生の主体的・能動的な勉学を前提として行われるものであり、学生の勉学あるいは人生全般の方向付けに授業がどういう効果をもたらしたのかを測定しなければ意味が無いのである。

 次に、「教員個人の資質偏重」から「教員、学生、大学行政部を視野に入れた相互作用」を視野に、という主張も納得できるものであった。ちなみに、岡大では、学生・教員FD検討会が公的に常設されており、、このほか、自由記述アンケートや意見箱などを通じて学生の意見が教員や大学行政部に届くようなシステムが不十分ながらも機能している。

 コミュニティといっても、地域、学校、職能集団などによってニーズが著しく異なるため一概には論じられないが、「教育の質」を保証する責任は教員個人ではなく教育組織単位(履修コース、講座、学科など)に求められるべきだということであれば大いに賛成できる。近年、教育・研究業績、管理運営、社会貢献、地域連携などにおいて、教員の個人評価を重視し、競争原理や成果主義を導入しようという動きが強まっている。確かにこのことによりある面は活性化されるだろうが、2001年3月18日の日記にも記したように、企業内で実施した場合には、
  • 失敗を恐れるあまり長期間にわたる高い目標に挑戦しなくなったため、ヒット商品が生まれなくなった。
  • 納入した商品のアフターケアなどの地味な通常業務がおろそかになり、トラブルが続発して顧客に逃げられる。
  • 目標達成で手いっぱいになり、問題が起きても他人に押しつけようとする。
といった弊害があることが指摘されており、より一般的には
  • 評価される面ばかりに一生懸命になる
  • 短期的な成果ばかりをねらい、長期的な展望や全体的な視点が持てない
  • 個人本位になる
といった恐れがあるように思われる。要するに大学内では、

短期間で具体的成果を上げられるような研究をテーマに選び、レフェリー付き論文の執筆に終始、自分が担当する授業だけは熱心に行うが、学部や大学全体の教育改善や改革には無関心

という弊害が出てくるように思えてならない。履修コースや講座を大くくりにするような改革が行われ、教育組織間の競争原理が働きにくくなればなるほど、上記の傾向は強められていくだろう。そういう意味では、教養教育であれ専門教育であれ、それに責任をもつ組織を明確にし、組織単位での競争(例えば、受講者数、受講生の授業評価、卒業後の進路など)が行われるような環境づくりが望ましいのではないかと思っている。




 ところで、会場で配布された資料に
  1. コミュニティ感覚の低下:.....【略】.....教員同士の競争・引きこもりが助長されてしまう
  2. 正当・公平は能力査定システムの欠如:.....【略】.....年功序列、講座制(国立大学等)などの慣習により、現在のところ教員の教授・研究能力を評価するシステムが存在しない
という記述があった点がちょっと気になった。私の疑問は、これらが同時に起こっているのか、別々の大学で起こっているのか、それとも両者が葛藤状態にあるのかという点である。念のため質問をしてみたが、時間不足のためご説明をいただくことができなかった。

 私自身が思うには、FDとか大学改革が叫ばれる以前は、大学には上記2.に相当するような年功序列の棲み分け社会があった。そこには、年長教授の怠慢は若手の助教授や助手が尻ぬぐいし、仕事のあとでは赤提灯やカラオケ、停年退職時には、名誉教授としてベタ誉めするという、「古き良き」コミュニティがあったはずだ。しかし、3/5の日記にも書いたように、そういうコミュニティでは、お互いの批判を避け、問題を覆い隠したり先送りする弊害がどうしても出てくる。10年、20年と、体制が変わらなければそれでもよいのだが、今の世の中のように、組織の大規模な変革が求められている時代には、残念ながらそういう「古き良き」コミュニティは成立しない。しかし、だからといって、教員が個人本位で競争したり引きこもったりするようではやっていけない。

 3/5の日記にも書いたように、私は、今の大学コミュニティに求められるのは、公的な活動と私的な恩義が区別できるようなクールな人間関係ではないかと思う。ちなみに、ここでいうクールとは「冷めた、冷淡な」という意味ではなく、「冷静な、すてきな」という意味を含むつもりで使っている。ひとくちで言えば、率直に批判を出し合い、かつ、感情的にならずに、建設的な方向に向けて責任ある議論ができるような公的な関係ということだ。