じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[写真] 京大・吉田キャンパス内で見かけた妙な胸像。ネットで検索したところこちらに解説があった。で、その人物が折田先生であるということは分かったが、誰がなぜどういう目的でこの像を作ったのかは依然として謎である。

3/17追記]
みうらあさこ様よりこちらに詳しい情報があることを教えていただいた。どうもありがとうございました。
5/2追記] 上記サイトはhttp://euro2002.hp.infoseek.co.jp/orita_top.htmlに移転したそうだ。


3月16日(日)

【ちょっと思ったこと】

タマちゃん、その後

 夕方、たまたま視た「真相報道バンキシャ」(西日本TV)で、タマちゃんの話題を取り上げていた。私が聞き取った範囲でメモしておくと
  • タマちゃんは、最初に出現した時に比べると、体が大きくなっている
  • いま、北の海に帰しても流氷が張りつめていて棲息困難
  • アメリカでは「東京湾にアザラシが迷い込んだ。しかし日本人はタマちゃんと呼んで、帰したがらない」と報道された
 このことについては3/11の日記にも書いた通りであるが、私は、人間の勝手な思いこみで北極の海に帰すという行動には賛成できない。このままソッとしておくのが一番だと思う。

 そもそもアゴヒゲアザラシが東京湾やそこに流れ込む河川に棲んではいけないなどとどうして主張できるのだろうか。気候変動や海流変化などいろいろな要素はあるだろうが、すでに何ヶ月も生活している以上、「アザラシは北の海に棲むものだ」と決めつける理由はどこにもないと思う。

 動物の生息地というのは、一番棲みやすい場所を示すとは必ずしも限らない。他の動物に仲間を喰い殺された後、やっとのことで高所や乾燥地帯に適応した動物だって多い。なかでも一番の悪者は人間だ。ニホンザルやツキノワグマやイノシシが人里に出没すると直ちに捕獲されてしまうけれど、もともとはどの動物だって、日本中を好き勝手に動き回っていたはず。残念ながら人間に害を与える場合には排除しなければならないが、特段の害を与えないアザラシを何で北の海に追いやらなければならないのかがよく分からない。

 ここで私がよく引用するSkinnerの1979年講演の一節[The non-punitive society. 行動分析学研究, 1990, 5, 98-106.所載]を引用しておきたい。
A humane society will, of course, help those who need help and cannot help themselves, but it is a great mistake to help those who can help themselves. .....【中略】....... Those who claim to be defending human rights are overlooking the greatest right of all: the right to reinforcement.
 これをタマちゃんにあてはめて改訳すると次のようになる。
動物愛護団体は、もちろん、助けを必要とし、かつ自立できない動物たちを助けるでしょう。しかし、助けを必要としない動物まで助けることは重大な誤りです。.......【中略】......動物の保護を主張する人たちは、動物たちの権利のうちで最も貴い権利が何かということを見落としています。それは自分で餌を探し、自分の力で生き延びるという権利です。
 米国の報道では「アザラシが東京湾に迷い込んだ」と言っているが、助けを必要とするのは能動的な移動ができなくなった動物だけである。クジラが湾内の浅瀬に乗り上げてしまった時は、助けがなければ深い海に戻れない。羽根をケガした渡り鳥は自力では故郷に戻れない。だから人間が救出してやるのだ。しかし、海と川の間を自由に移動できるアザラシをなぜ「救出」しなければならないのだろう。

 聞くところによると「想う会」のメンバーは16日、なっなんと帷子川にホタテ貝を放り込んで職員から制止されたという。これってどういうつもりなんだろうか。自分で餌を取る権利をアザラシから奪おうというのだろうか。だいいちそんなことをしたら、帷子川で餌付けをして、そこから湾外に移動するチャンスさえ奪ってしまうではないか。それこそペット化であり人間のエゴではないかなあ。

【思ったこと】
_30316(日)[教育]大学教育研究集会/大学教育改革フォーラム(2)学生の出席・欠席意識

 昨日の続き。午前中に行われた第2回大学研究集会について感想を記していきたいと思う。この集会は8つの部会に分かれて研究発表が行われた。私はこのうちのFD研究部会に出席した。

 9時からの最初の発表は、学生の出席・欠席に関する意識調査の報告であった。昨日の日記で述べたように、この部会の発表には「私の大学ではこういう取り組みをしています」という情報提供的なものもあれば、実際に調査を行った上での研究発表に近い性格のものもあったが、本発表は後者に近いものであった。

 調査は某私立大学の文系学部で前期最終授業の1回前に実施された。有効回答は389名(男子166名、女子223名)質問の内容は、性別、年齢、アルバイト有無、住居(通学時間)、学費捻出方法のほか、4月時点の履修意欲、調査時点(7月)での学習意欲、成績の見通しなど(5件法)、さらに授業への出席・欠席の理由を複数回答式で尋ねるものであった。結果については、

●Friedman, Rodriguez, & McComb (2001). Why students do and do not attend classes: Myths and realities. College Teaching, 49, 124-133.

が行ったアメリカの大学における調査との比較考察も行われた。発表の後半では、同じ学部に属する同年齢層の助教授の授業についての比較調査の結果も紹介されたが時間不足ということもあって内容がいまひとつ理解できなかった。

 発表を拝聴してまず思ったのは、この調査は最終授業の1回前に行われたということについてのバイアスである。要するに、授業に出席した学生に対して出席・欠席の理由を聞いているのであるから、途中でリタイアした学生や、この時間に欠席した学生の欠席理由は含まれていないことになる。きっちりと把握するのであれば、履修登録をした学生全員に郵送で調査用紙を配布し、かつそれぞれの学生のプライバシーを守ることを明示した上で学籍番号を書かせ、各学生の出席率を客観的に把握した上で結果を分析すべきであると思う。もちろんいくら秘密を守ると言っても、学籍番号を書かせた場合には優等生的な回答が増える恐れがあるので、無記名式と併用しながら分析を進めるにこしたことはない。

 次に、そもそも、出席・欠席理由のようなものは、大学や担当教員や分野によって大きく変わるものであり、アメリカの大学との比較考察は殆ど意味が無いと思う。それから、学生の挙げた「欠席理由」なるものが、真の理由なのか言い訳として表明されたのかも調べておく必要がある。このあたりは質問紙調査だけでは不十分であり、個別の面接調査や実験的介入を併用しないと分からない。




 多元的な成績評価と授業の出席率に関する話題は、2003年1月23日の日記でも記したことがあるが、私個人は、授業に出席するのは受講生の義務であると考えている。アルバイトや就職活動がどうあれ、あるいは前日夜遅くまで何かをしていたとしても1限目の授業を遅刻したりサボったりするのは学業怠慢。ペナルティを受けて当然である。

 そのかわり、学生がその授業に100%出席した上で授業内容に不満がある場合はドシドシ批判をすればよい。要するに「ツマラナイから欠席」などというのは学生側の甘え。ツマラナイ場合は、授業に出てきた上でちゃんと文句を言えということだ。

 学生がなぜ授業に出席・欠席するのかは、結局は、授業に出ることが何によって強化されているのかという行動随伴性の問題であろうと思う。欠席理由の現状把握も大切ではあるが、もし欠席が多いのであればどうやって100%出席を達成するのか、積極的に介入すべきであろう。といいつつ、私自身の授業でもそれは達成できていない[こちらや、こちらに、教養教育科目についての途中集計の結果がある]。

 国立大の場合は、欠席者はバッサリ不可にすればそれで済むところもあるが、なかには何とかして単位をとらせ卒業させていかないとやっていかれない大学もあるのだろう。別の発表で、retention rate(退学や転学せず、次の学期に引き続き登校を続ける学生の率。アメリカではかなり低いという)のことが話題にされたが、日本でもいずれこのことが問題になる。「欠席が多ければ再履修」というペナルティだけでは不十分という事情にも考慮する必要があるのかもしれない。次回に続く。