じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[写真] フウセントウワタ。昨年2月20日の日記にも書いたが、この時期になって実が割れて種が飛び出してくる。これが自然の繁殖形態なんやろか。99年11月28日の日記に「けさらんぱさらん」についての言及あり。


2月23日(日)

【ちょっと思ったこと】

中国要人の氏名にフリガナ?

 2/23の朝日新聞に「あすから中国共産党2中全会」という記事があった。その中でおやっ?と思ったのは、江沢民・現国家主席、胡錦涛・党総書記など要人の氏名に、「チアンフォーミン」、「フーチンタオ」など原語読みのフリガナがつけられていたことだ。

 韓国・北朝鮮の氏名と異なり、中国と日本の間では、お互いの名前を漢字で表記し、かつ漢字の読みは使用国の発音に合わせるということで暗黙の合意があり、従来からそのように対処してきたと思っていたのだが、なぜ、ここで原語読みのフリガナをつけたのだろうか。

 1つ考えられるのは、英語で中国人の名前が書かれてある時への配慮だ。オーストラリアで英字新聞を読んだ時にも感じたが、英語で中国の人名が書かれてあっても誰のことかさっぱり分からない。英語を公用語とする国際会議でも、中国要人の名前はすぐには思い出せないというデメリットがあった。これは地名についても言える。

 とはいえ、国内の新聞記事にフリガナをつけてもその通り読む人はおるまい。せっかく漢字を共有しているのだから、使用国の一般的な漢字の発音で呼び合ったほうが記憶に負担をかけなくて済むし、特別の親しみがわくと思う。

【思ったこと】
_30223(日)[教育]卒論をうまく書くには(後)卒論は「研究」より「試験」

 昨日の日記の続き。

 少々誤解を招く表現かもしれないが、私は、卒論は「研究」ではなく「試験」に近いものだと思っている。

 卒論の一番の特徴は、1月31日の17時00分までに、何がなんでも提出しなければいけないということ(もちろんこれは岡大の場合。1月31日が休日の場合は、その翌日)。1分でも遅れれば、ソク留年。早くても前期卒業まで6カ月待たなければならない。

 提出の締切がこれほど厳格であるのは、いったん特例を認めてしまうと、10分送れてもエエじゃないか、30分送れてもエエじゃないか、その日のうちならエエじゃないか。翌日の始業開始までならエエじゃないか、...と歯止めがきかなくなるためと思われがちだが、原則的立場から言えば、「試験」であるからこそ、時間までにきっちり出さなければならないと強調しておく必要があるだおる。つまり、入学試験であれば、試験終了時間を1分でも間違えれば公平性を欠くことになる。100点満点で評価される成績評価資料である以上、特例は許されるべきではない。それゆえ、試問後の修正という留保条件をつけて合格させることも認められていない。試問後に加筆修正したものを提出させることがあるがこれはあくまで製本して後輩のお手本や学外者からの閲覧に役立てるためである。

 以上にみてきたように、卒論は「研究」より「試験」の特徴に近い。なぜなら、
  • 研究にはそれほど厳格な提出期限は無い。間に合わなかったり、成果が十分に得られなかった時は、もうしばらくデータを取り続けることができる。卒論は何が何でも締め切りまでに書き上げなければ受理されない。
  • 分野にもよるが、研究論文では、査読者とのやり取りを通じて加筆修正が行われるが、卒論の場合、それらは成績評価に反映されない。





 さて、それでは、卒論は、なるべく100満点に近い点数を取るように工夫していくべきか、それとも60点以上スレスレでよいから、とにかく自分のやりたいことを貫くほうがよいのだろうか。このあたりは意見が分かれるところかと思う。
  • 大学院進学予定者などで、なるべく好成績を残したほうが有利になると考えるならば、高得点を取るように頑張るべきだ。あるいは、研究者としての道を望むのであれば、卒論は1つの通過点であり、何か新しいスキルを身につける手段として利用することもありうる。
  • いっぽう、社会に出る人にとっては、これが学問の場で自分を試す最後のチャンスになるかもしれない。一生に一度の卒論なんだから、とにかくやりたいテーマを選べばよい。結果的にあまりよい評価が得られなかったとしても、それで本望。
というように2通りの見方があるかと思う。

 成績評価をする側から言えば、いくらオモロイ内容であっても、結果の客観性や確実性に問題があったり、考察に飛躍があれば高い点をつけるわけにはいかない。しかし、指導教員の言われるままに優等生的に卒論を仕上げて高得点をとるよりは、合格点スレスレでよいから、周りをアッと言わせるようなテーマを取り上げる挑戦的な学生が出てきてもよいのではないかと思う。

 私が学生の頃は、卒論テーマはもっと自由に選べる時代だった。麻雀が好きな先輩は、モーパイの両側性転移の実験で卒論を書いた。またある人は、自分が3日間連続して「水」に関する夢を見たということについて詳細な考察をした。それぞれどのくらいの点数をもらったのかは知るよしもないが、ご本人たちは楽しみながら研究に取り組んだのではないかと思う。

 近頃は、公務員、教職、あるいは英語外部試験にしても、学生課と生協が連携して開催する受験準備講座(有料)に参加する学生が増えている。それはそれでよいのだが、自力で情報を収集せず、誰かにレールを敷いて貰って言われた通りに学ぶというのは、ちょっぴり情けない気がする。卒論は「研究」ではなく「試験」に近いものだと述べたが、くれぐれも予備校型受験勉強の延長として位置づけてほしくない。