じぶん更新日記1997年5月6日開設Copyright(C)長谷川芳典 |
紅梅の盆栽が2〜3輪の花をつけた。春ならともかく、秋の彼岸前に梅が咲くとは.....?? |
【ちょっと思ったこと】
「北朝鮮」という呼称 9/17朝のTVニュースで、小泉首相がピョンヤンに向けて飛び立つ場面が生中継されていた。ピョンヤンにもソウルにも一度も行ったことの無い私であるが、日本から北京方面に向かう飛行機からは何度か朝鮮半島を眺めたことがあった[こちらの記事参照]。遙か遠い国のように思えるが、距離的には羽田から鹿児島や釧路までと大差なく、わずか2時間で着いてしまうというのが現実である。 ところで、この国は、正式には「朝鮮民主主義人民共和国」、2国間の関係は「日朝」と呼ばれる。ならば略称として「北朝鮮」ではなく「朝鮮」と呼んでも良さそうに思うのだが、たぶん韓国が猛反発してくるのだろう。では「North Korea」、「South Korea」に対応させて「北朝鮮」「南朝鮮」、あるいは「北高麗」「南高麗」と呼べばよさそうにも思うのだが、これもたぶん韓国が認めないのだろう。いずれにせよ、「北朝鮮」という呼称が公的に使用されるようになった背景には、他国への配慮がはたらいていたのではないかと推測せざるを得ない。手元に資料が無いので分からないが、中国の地図では「North Korea」は「朝鮮」、「South Korea」は「韓国」と表記しているのではないだろうか。 出発前の小泉首相の会見では一貫して「北朝鮮」という呼称が使われていたが、ピョンヤン到着後はどうするのだろうか。また、めでたく拉致問題等が解決して国交が成立した場合は呼び方を変えるのだろうか、少々気になるところだ。 |
【思ったこと】
_20916(月)[心理]日野原重明先生と新老人(4)「良く死ぬということは良く生きること」/「唯生論」 先週の木曜日の日記の続き。「にんげんゆうゆう」のこのシリーズは4回完結となっていたが、木曜夜放送・金曜昼再放送の4回目は、種々の都合によりビデオ録画により視ることとなった。4回目は、「死」という難しい問題についての日野原先生ご自身の解答であった。 過去3回もそうだが、日野原先生のお話に納得する点が多いのは、何と言っても長年の経験の裏打ちがあるからだ。私のような若僧がいくら理屈をこね回しても、90年のご経験に太刀打ちできるわけがない。じっさい、今回の「死」についてのお話も、医師としての長年のご経験に基づくものであった。日野原先生がこれまでに死を看取った患者さんは、空襲の犠牲者を含めれば4000人、ご自分が長期間診療された患者さんだけでも1500人〜2000人にのぼるという。 日野原先生の「死」への関わりは、医師になったばかりの時、肺結核を患っていた16歳の少女の死に直面した時から始まる。その少女から、母親にあてた遺言を頼まれたにもかかわらず、すでに死を受容していた少女の気持ちを否定して「そんなバカなことを言うな」と延命措置を講じる。その反省から、命の質、つまり命というのは長さではなく深さが大切なのだと考えるようになった。 日野原先生は、10年ほど前に日本初の独立型ホスピス「ピースハウス病院」を設立された。そこでは、延命措置ではなく、モルヒネによる痛み除去(←痛みが一番ミゼラブルだという)やマッサージなどが行われている。また各病室の医療器具は木製の棚の中に、また医療スタッフは白衣を着ないなど、病院をイメージさせないような工夫が各所に施されている。残された命を質高く生きるというのは、ちょうど、丘の上に立って夕日を受けながら自分の長い影を見るようなものだという。富士山を眺めながら死にたいという患者さんも遠くからやってくるという。 日野原先生によれば、最も不幸な死とは、戦争や事故などで殺されること。これはまだ生きられる可能性が奪われてしまうためだ。では、これに対して、良く死ぬとはどういうことか。その結論は、 ●良く死ぬということは、良く生きるということ。どう生きるかという努力が、その人の死をデザインする。 というものであった。シリーズ4回の内容から推測するに、良く生きるということは、大きなビジョンを持って、日々いっしょうけんめい生きるということに尽きるのだろう。ちなみに「大きなビジョン」というのは、R.ブラウニングの ●小さな円を描いて満足するより、大きな円の一部である弧になれ という言葉に通じている。 以上が、私自身が聞き取った内容である。そのなかでいちばん強く感じたのは、お話の中からは、天国や来世、あるいは信仰にすがるような言葉が一度も現れてこなかったことであった。これは、スキナーや宇野千代さんの生きざまにも共通していた。どの方々にもそれなりの信仰はあるだろうし、それは日野原先生の「いつ召されても」とか「私が与えたものより受けたものが多いことへの感謝」という言葉の中にも含まれているに違いないが、とにかく、現実にあっては「死んだら天国に行きたい」とか「来世は楽をしたい」などと考えず、いまをよく生きるということに専念しようという発想だ。この発想は、“One world at a time”、つまり、来世や天国を信じようと信じまいと、とにかく現世で最善を尽くすという生き方にも通じるようにも思える。あるいはもっと極端に言えば「唯生論」ということになるのかもしれない。 この「唯生論」というのは、「唯物論」vs「唯心論」の対立軸とは全く異なる物の見方、つまり、この世界では「生きる」ことのみが存在し、それだけが唯一の関心事であるという考えることである。それに対して、「いかに死ぬか」というように死に方や死の意義づけを重視するのが「唯死論」ということになる。 ちなみに行動分析で言われる「死人テスト」とは「死人でもできることは行動ではない」という基準で「行動モドキ」をふるい落とし、残された真の行動だけについて考える。この点、行動分析は紛れもなく「唯生論」である。 もう1つ、上掲のR.ブラウニングの「大きな円の一部である弧になれ」という生き方だが、こちらの感想でも触れたように、これは現実にはなかなか難しいことだ。なぜなら、いくら当人が弧を描いていると思っていても、それが大きな円の一部になるのか、全く余計な落書きになるのかは、ずっと後になってみないと分からないからである。なかには、9/11の日記に書いた田中一村画伯のように「50年後、100年後に認められればそれでいい」という信念で固められる人もおられるだろうが、下手をすれば、「自分が描いているのは大きな円の一部なのか、それとも落書きなのか」、一生迷い続けることにもなりかねない。やはりこのあたりは、 ●自分は大きな木から岩盤の割れ目に潜り込もうとしている細い根っこである。伸びた先に水があるかどうかは分からないが、とにかく根っこの一部なんだ。 と気楽に考えて頑張ってみるぐらいがよろしいのではないだろうか。自分が根っこの一部としてどれだけ水分や養分を運んでいるかは分からないが、すでに朽ち枯れていても風に押し倒されないための支えにはなっているかもしれない、少なくとも、この樹木の害虫にはなっていないはずだという生き方である。 [※9/17追記]「唯生論」という言葉は、上記の趣旨とは異なった意味でも使われている。ネットで検索したところでは
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