じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] ↓に連載中の日野原重明先生のお話の中で「新しく始めることさえ忘れなければ、人はいくつになっても老いることはない」というブーバーの言葉が紹介されていた。さっそく、夫婦で新しいことを始めたら良いのではと思い、生協で「○○にときめく」などの本を3冊買ってきた。妻に、さあ、毎日これを1ページずつ読んでお互いの考えを出し合うことにしよう、と提案したのだが、「誰がそんなもの読むもんですか!」とあっさり却下されてしまった。もっとも、今日の夕方には、某カルチャーセンターから「○○講座一日体験教室の申し込みを受け付けました」というような葉書が2枚も届いていたので、ま、妻のほうも独自に新しいことを始めようとしているんだろう。しかし、夫婦で同じことを考えるっていうのは素晴らしいことだと思ったのだがなあ。





9月12日(木)

【ちょっと思ったこと】

「殺戮」か「破壊」か?

 ブッシュ大統領が自由の女神の前で演説をする様子をNHKのニュースで視た。その中で私のヒヤリングが間違いでなければ「mass murder」という言葉が使われているにもかかわらず、日本語の見出しは「大量破壊兵器」となっていて、あれっ?と思った。「mass murder」だったら、どうみたって「殺戮」あるいは「殺人」ではないか。その後、他のニュースの副音声で、通訳の女性が「mass destruction」という言葉を使っていることも分かった。「destruction」は確かに「破壊」という意味もあるが、殺人、絶滅、破滅という意味にも使われる。どっちにしても、日本語の「破壊」とはちょっと違うように思う。

 英語の微妙なニュアンスのことは分からないが、化学兵器や細菌兵器を含めるのであれば「destruction」より「murder」のほうがピッタリするような気がする。それらは少なくとも日本語では「大量破壊兵器」にはあたらない。それから、これは、しつこく言わせてもらうが、「mass murder」かつ「mass destruction」に相当する武器を人類史上初めて、罪のない人々の頭上で炸裂させたのは米国だ。1945年の8月6日と8月9日のことである。

9/14追記]CNNサイトにあった「U.N. resolutions on Iraq」資料には“Resolution 687 (adopted in 1991): Demanded Iraq provide full, final and complete disclosure of all aspects of its programs to develop weapons of mass destruction and ballistic missiles with a range greater than 150 kilometers. ”と記されていた。下線は長谷川による。国連演説の中ではいずれの表現も使われていたが、国際決議上は「destruction」のほうが正式であるようだ。



東京電力の謎、その後/7億円を寄附する篤志家は誰だ?

 9/10の日記で、「東京電力(営業区域は関東全域と静岡東部のみ)なのに、なぜ、福島県と新潟県に発電所があるのか? 」という疑問を述べたところ、掲示板のほうで多数?の情報をいただいた。いちばん最近いただいた高岡さんからの情報によれば、この疑問は、けっこういろんな人が思いつくらしくこちらにちゃんとFAQのあることが分かった。元の質問は

●福島は東北電力のテリトリーなのに、東京電力が原子力発電所を建設したのにはどのような理由があるのですか。

というものであった。それに対する回答としては、

●関東地方のような平野部は、その地質構造から岩盤が深く、原子力発電の立地に適した場所は限られているのが実状です。

というもの。関東平野の中でも、三浦半島、房総半島南部、茨城県北部などの岩盤はけっこうしっかりしているのではないかと思うのだが、ま、他の事情もいろいろとあるのだろう。

 ところで、上掲のサイトは、その最後のところで
国土の狭いわが国では、国土をその土地の特性に応じて適切に利用することが大切です。各地域が自給自足で経済活動を完結するより、地域と地域がそれぞれの役割を担い、お互いに依存し合うことによって、よりよい経済活動が成り立つのではないでしょうか。
という、ありがたい言葉が記されていた。これがちゃんと理解されれば、原発はもとより、ウラン残土の処理とか、ゴミ焼却場建設問題なんかももっとスムーズに解決するはずである。

 ところで、ちょうどこの日の中国地方向け番組で、「島根県鹿島町に今年に入り、7億円の匿名の寄付があったことが9日、分かった。」というニュースが報じられていた。同じ鹿島町には昨年も7億円、また隣の島根町には3億円、それぞれ匿名者からの寄付があったという。

 この不景気の時代にそんな気前のいい篤志家がいるとは思えないのだが、これはどうやら、原発が設置されていたり増設が予定されている自治体に対して中国電力が行っているものらしく、関係者もそれを否定せず、それを前提とした発言まで飛び出しているという。

 もし、原発が100%安全なものであるなら、それを設置する自治体に迷惑料のようなものを支払うことは、まことに奇妙なことになる。また、もし自治体側が「金をよこさなければ協力しないぞ」というような脅しをかけているとしたら、「各地域が自給自足で経済活動を完結するより、地域と地域がそれぞれの役割を担い、お互いに依存し合うことによって、よりよい経済活動が成り立つのではないでしょうか。」という精神にも反することになる。

 それから、ある企業が自社に有利な結果を招くように政治家に働きかけ金品を贈ったとしたら、贈賄として罰せられるはずだ。特定企業に対する施策や対応がその企業の寄附の有無によって異なってくるとしたら、これも犯罪行為にはならないのだろうか。

 もう1つ、これは我が家にも直接関係してくることなんだが、もし本当に電力会社が7億円やら3億円の寄附をしていたとすると、けっきょくはその分が我々が払う電気代に上乗せされることになる。

 以上はあくまで仮定の上の話。どっかの地元篤志家が出雲の発展のために田畑を売り払って寄附を続けているという可能性も皆無とは言えない。

9/13追記]匿名寄附の記事が毎日新聞9/10にあった。
【思ったこと】
_20912(木)[心理]日野原重明先生と新老人(3)

 昨日の日記の続き。シリーズ3回目は、日野原先生ご自身の「新老人」としてのご活躍ぶりが紹介された。冒頭では、ソフトボールに初挑戦をするという話、さらにミュージカル「葉っぱのフレディ」の脚本作りの話、ご自身が作詞作曲したボランティアの歌のピアノ演奏、音楽療法の普及と「音楽療法士」の資格化のご努力、医師としての回診のご様子などなど、驚くほど多彩だった。

 このうちフレディのお話は、昨年秋の高塚延子先生の講演(2001年10月7日の日記参照)でも伺ったことがある。あの時は「生と死」のテーマに焦点が当てられていたが、そもそもなぜミュージカルなのかということが分からなかった。今回のお話によれば、そこには、3世代が一緒に楽しめるからという理由があったようだ。

 さて、私たちが何かを「創(はじ)め」た時には、
  1. スタートしてしばらくは成果が上がらない(←結果が伴わず、強化されにくい)
  2. 失敗した時にダメージが大きい
というマイナス要因が働くものである。このうち2.について、「どうせ素人なんだからダメでもともと」という楽天主義も必要のようだ。もっとも1.については、達成目標へのステップをより細かくかつ合理的に設定し、必要に応じて人為的に結果を付加するというサポートも必要なのではないかと思う。例えば、日野原先生ご自身がピアノを演奏する場面が紹介されていたが、これは日野原先生が子どもの頃からピアノを習っていて初めてできたことである。老人になってからピアノを始めようとしても、最初はドレミをしっかりと出すことさえ難しい。鍵盤のタッチとか、一部自動演奏を入れるとか(例えば、左手で弾く部分のみ自動演奏させる)というようなサポートを受けた上で、達成可能な範囲で練習に励むべきであろう。

 「新しいことを創(はじ)める」に関しては、いや、そんなことよりも、昔の仕事をもう一度やってみたいという人も居るのではないかと思った。以前日記にも書いたことがあるが、新潟県長岡市の病院「ビハーラ病棟」では、末期ガンの患者さんに、好きな作業ができる機会を作っていた。大工さんだった患者には木工室でベンチを作ってもらう、板前さんだった患者にはスタッフのために料理を作ってもらうといった具合だ。このように昔がんばっていたことを再現することも重要であろう。また、同じ山に1000回登るというように、いま続けている行為に累積的な成果を付与していくことも大切だと思う。

 もちろん、新しいことを創(はじ)めることができれば、それだけ行動のリパートリーが増え、異質な行動内在的好子を得られるという楽しみはあるに違いない。とはいえ、チャレンジする領域が未知であればあるほど、スキルの獲得には困難をきわめるはずだ。私なども、なんでも可能になるというなら、飛行機を操縦したいとか、宇宙飛行士になって月や火星に行ってみたいといった夢はあるが、まず不可能。しいてできることは、「じぶんの知識や技能が“更新”された時にその内容を記録し、昨日と違うじぶんを作っていく」ことぐらいだろう[こちら参照]。



 音楽療法で病を癒すという取り組みは、日野原先生がカナダに見学に行かれ、末期ガンの患者さんたちが、療法士との合奏、あるいは患者さん自身が作った詩に療法士が即興でメロディをつけるといったセラピーを行っていることに感動し、音大の学長に働きかけて夜間コースを作ったことから始まったようだ。日野原先生ご自身が会長をされているとは知らなかった。

 現在、音楽療法士の資格化については国会での法制化待ちであり、また併せて、音楽による脳内ホルモンの変化などについて実証研究を進めておられる最中だという。実証研究が無いと健康保険の対象にならないという問題があるからだ。

 もっとも私個人としては、いろいろなセラピーの有用性を、医療効果だけで論じることには疑問を持っている、こちらでも論じたようにセラピーには2つの役割があり、このうちの医療効果、特に癒し効果にあたる部分については、個体差もあるし、実験研究の限界もあって、実証はなかなか難しい。

 医療保険の枠組みにこだわらず、高齢者施設やターミナルケアの現場で、入所者や患者のどういう権利が奪われているのかに目を向ける必要がある。例えば音楽を生きがいとしている人には、施設入所後にもそれを楽しむ権利を保障すべきである。その時に自力でできない部分をサポートするのが本来の音楽療法士の役割だろう。番組では、患者さんが、次に療法士がやってくるのを心待ちにし、それ自体が生きがいのもとになると言っておられたが、それを見ればわかるように、音楽を聴くこと自体よりも「次の機会まで待つ。それを楽しみにして生き続ける」ことに最大の意味があるのだ。

 同じように、「ひとりでは自由に園芸をできないので、専門家(園芸療法士)の支援で園芸の効用を享受する」ことは「園芸療法」になるし、対象者が、絵画、写真、書道、演劇、動物飼育、天文、登山などで楽しむことをサポートすることも広義のセラピーに含めればよい。要するに、患者や高齢者全般が能動的に働きかける権利(そしてそれが強化される権利)を保障し、それを経済的に支援することが大切なのであって、医療効果があったか無かったかなどは二の次の問題だ。




 元の話題に戻るが、番組の終わりのほうでは日野原先生ご自身の回診場面が紹介されていた。患者さんの目の高さに合わせて座り、手をにぎりながら語りかけるという診療をする医師はなかなかいない。若い医師の中には、患者さんの背中に手を触れることもせずに「痛いのはどこですか、肩胛骨の上ですか下ですか」と聞くだけであったり、また、コンピュータや診療器具の目盛りばかり見て患者さんには顔を向けない者がいるというが、やはり肝心なのは「手当」の文字通りの意味、「手を当ててタッチで診断する」という姿勢なのだろう。