じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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[今日の写真] この夏最初のエンゼルトランペットの花が7/16より咲き始めた。





7月17日(水)

【ちょっと思ったこと】

高校野球のおもひで

 高校野球の岡山県大会が始まった。高2の息子は昼前から自校の応援に。

 高校野球といえば、小・中学生の頃は、お兄さんがやっているスポーツという感じだった。中京商業の加藤投手と松山商業の西本投手の決勝での投げ合いを観たのがなぜか記憶に残っている。

 高校〜大学の頃は、同じ世代ながら別の世界に住んでいる人たちのスポーツという感じ。そんな中では、三沢の大田投手の激投が記憶に残っている。あの時私は、軽井沢から荒船山方面への単独縦走をしていたが道に迷い、下仁田方面への谷を下っているところだった。やっと民家のある村にたどり着いた頃、ラジオから決勝戦の中継が聞こえていたことを覚えている。

 大学院以降は、ずっと、自分よりずっと年下の若者のスポーツとなっていった。それがとうとう、息子と同じ世代に達した。そういえば息子も中学1年の時は野球部に入っていた。あのまま続けていたら、ひょっとして、イチロー並みの打力を身につけ甲子園出場なんていう可能性もゼロでは無かったはずなんだが、やめてしまうとはまことに惜しいことをした。

 で、試合結果のほうだが、予想通りの大敗。もっとも、もし勝っていたら、サッカーで「日本、ブラジルに勝利」ぐらいの大騒ぎになっていたことだろう。次は、娘の女子マラソン優勝にかけてみるか[←2/10の日記参照

7/18追記]
こちらの記録によると、上記の中京vs松山の決勝が行われたのは1966年。松山の西本投手は、元巨人の西本聖投手の実兄だった模様。三沢の大田幸司投手が活躍したのは1969年、私が高校2年の時であった。




「北東北大」は誕生するか

 7/18の朝日新聞によると、東北地方北部の弘前大、秋田大、岩手大の間で統合協議が行われているが、3大学のスタンスには微妙な温度差があるほか、大学間の移動距離(130km〜170km)も大きな障害になりそうだという。

 ちなみにこの3大学は、
  • 学部学生数:4018人(秋田)、5364人(岩手)、5629人(弘前)
  • 大学院生数:575人(弘前)、581人(秋田)、846人(岩手)
  • 教職員数:835人(岩手)、1393人(秋田)、1586人(弘前)
  • 科研費:2億4千万(岩手)、2億7千万(秋田)、2億8千万(弘前)
  • 予算:127億(岩手)、252億(秋田)、270億(弘前)
となっていて(本年5月1日現在、予算は2001年度概数)、規模がきわめて似通っていることが分かる。逆に、似すぎていると対抗ムードが前面に出てまとまりにくくなるかもしれないが、仮に3者のうち2者が統合すれば残された一校は相当のダメージを受けることになるだろう。

 ところで、3校が統合した場合の大学名はどうなるのだろうか。表題の「北東北大」というのは、一昨年に発足した「北東北国立3大学連携推進会議」の名称にちなむものだが、方角を表す文字ばかりで構成されていてどうみても格好が悪い。それに「北大」、「東大」、「東北大」の名前が含まれていて紛らわしい。となると、
  • 「みちのく大」←秋田県が含まれていないのが問題
  • 「奥の細道大」←宮城や山形が含まれていない
  • 「ノース・イースト大」←英語かぶれか
  • 「グスコー・ブドリ大」←宮沢賢治の作品にちなむものだが、岩手のイメージが強くなるか
  • 「十八大」←「十和田八幡平」を省略したもの。もっとも、個人的には長崎の十八銀行のイメージが強い
などなど考えられるが名案が浮かばない。統合するなら、まず魅力ある新名称の検討から始めたほうが無難ではないかと思ってみたりする。
【思ったこと】
_20717(水)[教育]教員の個人評価よりも、教育組織単位での成果主義を重視すべきかも

 岡大では全国に先駆けて教員個人評価を実施した。すべての教員が、特定のサイトにアクセスし、「教育」、「研究」、「社会貢献」、「管理運営」の4分野にわたり、詳細にわたって実績をWeb入力する。報告は一部、数量評価(点数制)となっており、それらは最終的に合計され、評価組織により点検を受けることになっている。

 さて、この入力システムだが、当初は6月末を締め切りとしており、私自身は前々日までにすべての入力を終えて出力結果を提出していたのだが、全体的には間に合わない教員が多数出てきた。みな、ギリギリになってからWeb入力を開始するので、どうしてもアクセスが集中する。結局、締め切りは2週間延期され、そこでもまたアクセス集中、未だに提出できていない教員も複数出ていると聞いた。

 この個人評価システム、評価項目は多岐にわたっており、全国どこへでも公開しても恥ずかしくない内容にはなっていると思う。しかしその一方、入力に多大な時間を取られるというデメリットがある。今回は試行ということもあって入力範囲はかなり限定されていたが、それでも、かれこれ、半日×3日間は費やした。パソコンやネットに不慣れな教員では、さらにその何倍もかかっているかもしれない。こういうことが避けられないとすると、ある意味では大変な時間の無駄であるとも言えよう。

 2/21の日記でも書いたが、
例えは悪いが、この種の評価はレストランにおける料理の味、店の雰囲気、接客態度などについての評価と同じであり、最終的にはお客によって判断されるべきものだ。営業時間を短縮して料理の味や接客態度の評価にあけくれ、一流の評価者を外国から招いたとしても、お客が入らなければそのレストランは倒産してしまう。大学における個人評価も、最終的には、大学の社会的使命に照らして外から評価されなければ意味がない
と言えないこともない。

 この種の評価項目というのは、「何が必要か」という形で議論すると、あれも必要、これも必要、という意見が続出し、結果として膨大なボリュームにふくれあがってしまう宿命を持っている。なぜなら、何らかの形で数量的な総合評価をするためには、1つでも漏れがあっては不公正になるからだ。「その項目はゼッタイに要らない」という明確な根拠が示されない限り、「この項目も必要だ」という意見は際限なく採用されていくことになる。

 2/21の日記にも書いたが、開始時点では教員全員が一律に個人評価、自己点検にとりくむとしても、いずれは、
  • ちゃんとした成果をあげていない教育組織に対してはより厳しく
  • 成果をあげている組織にはより簡略化された形で実施されるべき
であると私は考えている。 健康診断に例えるならば、日々イキイキと生活している健康人の診断はごく簡略に、日常生活上の問題をかかえている人には精密検査を実施するようなものである。それと、個人ではなく教育組織単位での活動を、教員一人あたりの学生数、出席率、留年率、学生側からのコース評価、外部からの評価....というように多面的に行えば、欠陥のある教育組織は、結果的にポスト返上を迫られることになる。それをくい止めるため(=阻止の随伴性)、構成員どうしの自己点検や、コースとしての教育活動の向上に取り組まざるを得ないようになるはずだ。