じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ジャーマンアイリスの花が一斉に咲き出した。多彩な花が咲く上に、比較的乾いた土地でも育つという点で花菖蒲(=日本産アイリス)に代わって植えられたのかもしれない。花菖蒲と比べた場合、外国産アイリスは中心部の花弁が大きく上に向いているものが多いようだ。後ろのオレンジの花は花菱草。





4月30日(火)

【ちょっと思ったこと】

またまた狡猾なウィルス付きメイル届く

 三連休のあと、メイルボックスを開けてみたところ、次のようなメイルが届いていた。題名や発信者を偽って、何とかして感染させようという卑劣なやり口だ。さっそく、詳細なヘッダを添えて岡山県警に通知した。
  • 一通目:パスワード送付を装った点で悪質
    • 題名:Your password
    • 発信者:n●f●ar <n●f●ar@wg7.so-net.ne.jp>
    • 添付ファイル:All.pif/99c901[1].jpg
  • 二通目:マイクロソフトからのパワフル・ツールを装った点で悪質
    • 題名:A powful tool
    • 発信者:●net <●net@microsoft.com>
    • 添付ファイル:WIDTH.exe/listen[1].jpg
このほかにも、ほぼ同形式の添付ファイルをつけたウィルス付きメイルが3通入っていた。




「ヌードは別人」の証明

 5/1の朝日新聞によると、女子テニスのアンナ・クルニコワが、30日発売の「ペントハウス」に掲載されているヌード写真は自分のものではないとして、訴訟を起こす準備があることを明らかにしたという。この種の訴訟では
  1. 自分のヌード(=盗撮)が掲載されたことへの慰謝料
  2. 自分のヌードでない写真を自分のヌードであると称して掲載されたことへの慰謝料
  3. 自分のヌードを他人のヌードとして掲載されたことへの慰謝料
という3通りが考えられる。今回は2.にあたるわけだが、精神的苦痛の度合いは1.や3.に比べてどう算定されるのだろうか。

 もう1つは証拠調べの難しさだろう。いちばん手っ取り早いのは、自分のヌード写真を裁判長に見せて身体的特徴の違いを主張することであるが、職業モデルならともかく、普通はそのような恥ずかしいことはできない。いっそのこと、自分のヌードが盗撮されたことへの慰謝料請求を出し、出版社側から「じつはあれは他人のヌードだった」と謝罪させるほうが戦略的に有効であろうと思うのだが、それでは精神的苦痛が癒されないのだろう。
 
【思ったこと】
_20430(火)[心理]結果が伴わないのに行動を続ける理由(3)行動を制御しているのは、結果ではなく、結果についての認知か?

 昨日の日記の続き。今回は、

(オペラント)行動を制御しているのは、結果ではなく、結果をどう受け止めているか、つまり結果の認知である

という見方について考えてみたい。こうした考えは
  • 同じ結果が随伴しても、影響される人と影響を受けない人がいる。これは「受け止め方」が違うからではないか。
  • 嫌な出来事でも、受けとめ方を変えると気にならなくなる。
といった経験的事実から、支持されやすい見方と言える。

 とはいえ、この発想は、次の2点において、「「能動」は「能動の結果」によって変わる」という視点の反例にはならない。

 まず、そもそも、物理的に同じ強さ(大きさ)の結果があらゆる個体に同程度の影響を及ぼすなどということは全く前提にされていない。その事象が好子・嫌子どちらになるのか、とか、どの程度のパワーをもった好子・嫌子になるのかといったことは、行動の変化を観察しない限りは断定できない。それらは個体本位で定義されており、また個体の中でも「習得性好子」や「習得性嫌子」という形で機能を変えていくものなのである。

 「結果」について重要なことは、その出現や消失が客観的に観察可能であり、行動と独立して操作可能であるという点だ。第三者の観察にせよ、無人島に漂着した人が木の幹を刻んで記録をつけるにせよ、とにかく、それがどのように起こったかという記録は主観によっては左右されない。基準が変われば数値も変わるが、その場合でも基準そのものが揺らぐわけではない。

 しかし、いま述べたことは、効果の普遍性を前提とするものでは全く無い。薬に例えるならば、何グラムの薬を何回飲んだかということは客観的に記録できる。しかし、それを飲んだ人にどのような効果があったかというのは別の問題である。

 もう1つ、そしてこれが根本的なところなのだが、「受け止め」というのはいっけん錯視のような知覚レベルの差違のように思われてしまうが、じつはそこにはさまざまな「能動」が介在しているのである。錯視の場合、物が過大に見えたり過小に見えたりすることは、ほぼ機械的に決まる。「結果の受け止め」の場合は、自分から近づく、遠ざかる、という能動を発することで、見え方そのものを変えてしまっているのである。

 どうしても、結果についての「認知」と呼びたければそれもよかろう。しかし、認知がどうあれ、「結果への対処行動」や「結果付加行動」等、「結果の受け止め」に関してどのような「能動」を発しているのかを詳細に把握しておく必要がある。ただ単に「受け止め方を変えましょう」「気にするのはやめましょう」といったかけ声だけでは役に立たない。結果の「受けとめ」の能動性については「行動すると自動的に伴う結果」の連載(一回目は4月25日の日記) で詳しく考察する予定。