じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] アネモネの花壇で面白い形の綿毛を見つけた。靴のようにも、ベビー用品のようにも、帽子のようにも見える。





4月25日(木)

【ちょっと思ったこと】

池谷・張彗星見物失敗

 このところずっと曇りや雨の日が続いていたが、26日の4時すぎに目が覚めてみると、みごとに晴れ上がっていた。せっかくのチャンスなので池谷・張彗星を眺めようと、双眼鏡でカシオペアの右側のあたりを捜してみたがちっとも見つからない。これは変だと思い、あわててパソコンを起動して星図を確認したところ、なっなんと、すでにカシオペアのはるか真上、ケフェウス座のあたりに来ていたのね。これではいくら捜しても見つからないはずだった。あわてて再び外に出てみたが、すでに東の空は白み、2等星がやっと見える程度になっていた。

 この彗星、予報ではすでに5等星前後となり、肉眼での確認は困難。明日以降は月明かりの影響が出てくるので、ますます見にくくなりそうだ。連休中はむしろ、月の出前の宵空のほうが見やすくなるかもしれない。

 なお、この彗星の写真はアストロアーツのギャラリーに多数掲載されている。また、星への誘いの雑記帳さんからのリンクで、アンドロメダ大銀河に接近した時の見事な写真が公開されていることも知った。4月5日撮影のもの。自宅パソコンの背景画像に使わせてもらっている。




人口が増える唯一の県

 4/25の朝日新聞によれば、都道府県の将来推計人口の中で、2030年に今より人口が増える都道府県は、滋賀、沖縄、神奈川、東京の4都県にとどまる。しかし、このうちで、2025年以降にも人口が増え続けているのは滋賀県のみであるという。記事では、京阪神のベッドタウン化のほか、名神、琵琶湖一望などの好条件が挙げられていた。

 滋賀県については99年8月29日の日記で取り上げたことがあった。面積は4017平方kmの中から琵琶湖の面積670平方kmを差し引くと3347平方kmが陸地面積となるはず。当時の日記には、地方交付税の算定要素に自治体の面積が含まれるため、県内の自治体が琵琶湖の線引きをしようと動いていると記してあったがその後どうなったのだろうか。

 滋賀県は、かつて医大の非常勤講師でお世話になったほか、比良山系の散策、河内の鍾乳洞、県境の伊吹山ドライブなどの想い出がある。もっとも、ここ数年はあまり良い印象が無い。車を使って中部・関東方面に旅行する時、いちばん渋滞に巻き込まれやすいのが、滋賀県内であるからだ。京都・大阪のようにもともと交通集中が起こりやすい場所ならともかく、田園地帯の中での大渋滞が起こるのは、道路計画上欠陥があるのではと思いたくなってしまう。
【思ったこと】
_20425(木)[心理]行動すると自動的に伴う結果(1)

 昨日の日記で「結果が伴わないのに行動を続ける理由」を取り上げた。その中には、行動がなかなか消去されない場合、行動がセットとして強化されている場合(コンポーネントが個別に強化されているわけではない)や、現状を中止する時にコストがかかる場合(退会届けの手続をするなど)などがあるが、もう一つ、行動内在的な結果に気づきにくいという場合があることを忘れてはならない。

 例えば、子どもが絵を描くという行動は、褒められたり小遣いを与えられなくても維持される。外部的な報酬を与えるとかえって自発的な行動が起こりにくくなると実証されているくらいである。一部の心理学では、これこそが、結果(強化)が無くても行動が起こる事例であるように受けとめられているが、実は、絵を描くことで画用紙(あるいは、カンバス)には変化、つまり白紙が絵に変わるという結果がちゃんと起こっているのである。楽器を演奏するのも同様だ。演奏すればメロディが流れる。それ自体、立派な結果になっているのである。

 こうした結果は、「行動内在的強化随伴性」として知られている。『行動分析学入門』(杉山ほか、産業図書、1998年)によれば、それは

行動に随伴して 誰かが関わらずに 自然に好子が出現したり嫌子が消失する

随伴性のことをいう。いっぽう、一般に「外的な報酬」などと言われているのは、付加的強化随伴性であり、同書では

行動に随伴して 意図のあるなしにかかわらず 誰かによって 好子が提示されたり嫌子が除去される

と定義されている。ちなみに、同じ枠組みは、弱化の場合にもあてはめることができる。すなわち、

行動内在的弱化随伴性:行動に随伴して 誰かが関わらずに 自然に嫌子が出現したり好子が消失する
付加的弱化随伴性:行動に随伴して 意図のあるなしにかかわらず 誰かによって 嫌子が提示されたり好子が除去される

 「行動内在的随伴性」は「ビルトイン随伴性」と訳されていたこともあり、または「自然随伴性」と呼ばれることもある。



 しかし、上記の区別は必ずしも明快ではない。例えば、
  • 「誰か」というのは他人のことなのか。目標を定め、達成した時に自分で祝うのはどうなのか。
  • 人間以外の動物は「誰か」なのか、自然なのか。
  • きつく締められた瓶の蓋を開けると中身が取り出せる。このことと、レバーを押して餌を取る行動は、本質的には同型である。後者は明らかに付加的随伴性だが、前者はどうなのだろう?
  • スポーツ競技において、勝利、表彰、自己記録更新、日本記録更新、連勝記録などはいずれも好子となりうるものだが、このうちどれが付加的強化随伴性なのだろうか。
といった疑問に答える必要がある。

 また、「行動内在的随伴性」にはもう1つ、循環論をどう避けるのかという問題がある。例えば

なぜゲームをするのですか?

に対して「楽しいから」と答えるだけでは説明にはならない。じゃあそれを「ゲームをすることは行動内在的随伴性によって強化されているからです」と答えると何か情報が増えるだろうか。単に難しい言葉に置き換えただけではないか。

 以上の問題は、この日記でも過去に取り上げたことでもあるが、このさい、もう一度、いろいろな角度から整理してみたいと思っている。次回に続く。