じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 文学部中庭の芙蓉の木に絡まっていたヘクソカズラの実。これが全部干し柿だったらスゴイ。





1月6日(日)

【ちょっと思ったこと】

白い犬とワルツを

 1/3昼に録画しておいたNHK教育テレビの海外ドラマ「白い犬とワルツを」(テリー・ケイ原作、サインボード・ヒル・プロダクション制作、1993年、アメリカ)のビデオを英語放送で観た。録画する気になったのは昨年8月9日の日記で、この原作本が「奇跡のベストセラー」になっていたことを覚えていたためであった。

 原作とはかなり違ったストーリーになっていたものと推測されるが、見えないはずの犬を映像化してしまったために、
老人の子どもたちには白い犬は見えなかった
それが見えるようになった時は鳥肌もの
という(津田沼の「BOOKS昭和堂」の木下和郎さんの、このメッセージについては昨年8月9日参照)謎めいた犬が普通のペットのように描かれてしまったところが残念であった。もっとも、ドラマはドラマとしてそれなりによく描かれていたと思う。「No endings. ...Discoveries.」というセリフ(←長谷川の聞き取りのため不確か)は、葉っぱのフレディの発想とよく似ているように思えた。
【思ったこと】
_20106(日)[電脳]電子年賀状は虚礼廃止の移行措置か

 昨日の日記で、私が受け取った年賀状61枚のウマの絵を右向きと左向きに分類したことを書いたが、実は私自身は年末に15枚だけしか差し出していなかった。岡山に戻ると、なんと私信だけで52枚、なかには学長や学部長をつとめられた方からの賀状もあった。しかし、手持ちの賀状の残りは15枚足らずで到底足りない。そこでやむなく、Eメイルアドレスが記載されていた方には、電子年賀状を送ることで勘弁してもらうことにした。

 電子年賀状というのは考えてみれば奇妙なシステムである。本来は相手方のアドレスが分かっているのだから直接メイルを出せばよいはず。自分のことを棚に上げて書くのも変だが、わざわざ第三者に配信を託す心理はどういうところにあるのだろう。

 まず考えられるのは、直接の対面がはばかれるということだろう。多少性質は違うが、電話をかければすぐに済むとところ、わざわざ祝電や弔電を打つというのと似たところがある。

 特に、Eメイルは気楽に出せるというメリットの裏返しとして、目上の人への年賀の挨拶には失礼に見えるという面がある。第三者に配達を託し、ついでに景品もつけてもらうということで、何となく年賀状の形式が整ったような気分になるから不思議なものだ。

 もっとも電子年賀状などというのは送る側の身勝手と言えないこともない。アクセスの手間がかかる上に、年明けにはSPAMがいっぱい届いており、重要な連絡メイルとの仕分けに手を焼いている方も多いのではないかと拝察する。自分で送っていて無責任なことを言うが、ネット上での交信は年始を避け、平素、気軽に行うのが基本かと思う。また、1年以上連絡の無い人が、自分の開設しているサイトの掲示板に突然書き込みをしてきたからといって、特に驚くにはあたらない。メッセージが思い浮かばない時は、Web日記執筆者の多くが設置している「空メイルボタン」を押すだけでもよいだろう。

 結局のところ、虚礼としての年賀状交換を廃止し、必要に応じて気軽に交信できるきっかけを作るための移行手段となるのが電子年賀状ということになるのかもしれない。




 それにしても今回は新年早々からたくさんの方に失礼してしまった。何十年来変わらぬやり方で、毎年12月になると賀状の束を取りだし、宛名書きや書き込みを入れて送るという「伝統的手法」を重んじる方々とどう折り合いをつけるのかが難しいところだ。