じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 花菱草。数年前の秋に、ワイルドフラワー・ミックスの種を蒔いたところ。その中でもこの土地にあった花菱草、フクロナデシコ、ヤグルマギクなどが繁殖した。なかでも花菱草は、種がはじけて広がるため勢力を拡大している。



4月26日(木)

【思ったこと】
_10426(木)[教育]21世紀の大学教育(4)花菱草/ポイント制による教員研究費配分と研究費の適正な執行について考える

 4/27の朝日新聞によれば、鳴門教育大は今年度から、教員の業績をポイント制にし、研究費の支給額に反映させることに決めたという。記事によれば、評価は、研究、教育、学内貢献、社会貢献の4分野。研究分野では、最近5年間に書かれた論文や学術書に対して、単著5ポイント、共著2ポイント、学会公園や発表は0.5〜3ポイントなど。教育分野では指導した学生数や授業数、学会での役職や地域での講演などに応じて1〜10ポイントが加えられる。それらの自己申告に基づいて、学内の専門委員会が支給額をA〜Cの3段階に分け、基本研究費に加算されることになるという。

 記事に記されている限りでは、「基本研究費」と「ポイントによる加算額」の比率が示されていなかったが、評価次第では助手の研究費が教授を上回る場合もあるということなので、かなりの影響が出てくるものと思う。

 この種の成果主義は、「努力の量と質に応じて結果を与える」という行動分析の原理に通ずるところがあり基本的には賛成であるが、「プロセスではなく結果を指標として強化することの弊害」、「数量化の方法」、「評価項目」、「評価のスパン」などを十分に考慮しないと、研究・教育活動を望ましくない方向に変質させてしまう恐れもあるように思う。いくつか、思いつくままに考慮点を挙げてみると.....

 まず、企業などの「賃金成果主義」と同様の一般的な問題点を考慮する必要がある。3/18の日記で取り上げたように、

 結局のところ、「成果主義」導入の成否は、
  • どういうスケールの行動を評価の対象とするか
  • 最終結果ではなく、プロセス(努力の量と質)をいかに評価するか
  • 何をもって強化するか
にかかっている。
 形だけの「成果主義」でしばしば陥りやすいのは
  • 客観的・数量的に把握しやすい行動指標だけを評価対象として安直に限定してしまう。
  • 努力のプロセス(=努力の量と質)の把握を怠る。
という点を考慮する必要がある。

 次に、大学の研究・教育に固有な考慮点を挙げてみると.....
  • ポイントを上げやすい行動だけが強化される恐れ。
    • 短期的に成果をあげやすいテーマばかりを研究する。
    • 自分のポイントになりにくい共同研究、共著などが後回しにされ、研究者の孤立主義、個人主義的傾向が助長される。
    • 自分の研究の業績をあげることばかりに注意が払われ、他者の研究に無関心となる。
    といった弊害が想定される。

  • 学術雑誌購読費をどうするか。
     機関で購読している学術雑誌をどういう予算で負担するかということも重要だ。図書館の独自の予算で購読している場合は「成果主義」の影響は小さい。いっぽう、研究費の一部で負担している場合は、その削減に応じて雑誌数を減らそうという動きが出てくる。
     私のところでも、講座研究費のおおよそ3割は学術雑誌の購読に充てられていたが、昨今の講座費削減に伴って購読数をバッサリと削減せざるをえなかった。

  • 質をどう評価するか
     著書や論文の数ばかりで評価をすると、質よりも量を重視した執筆が行われる恐れがある。ちなみに「審査を受けて掲載された論文」のほうが質が高いとは言い切れない。心理学の学会誌などで審査の対象となるのは、もっぱら研究内容の確実性(内的妥当性)のみである(4/10の日記参照)。それが他の研究者にどういう情報的価値を与えるかについては審査の対象にはならない。それゆえ、編集長とレフェリーと執筆者以外は誰も読まないような論文が研究費の配分を受ける目的だけで生産される恐れがある[「99年9月5日の日記とその翌日の日記参照]。
     また、教育業績の面では、単なる授業のコマ数だけではなくその内容をどう評価するかという問題が出てくる。学生の授業評価を取り入れるのか、それ以外にどういう評価法があるのか、などを十分に検討しないと、質の低下を招く恐れがある。
     学生数による評価というのも、大教室での一般教育の受講生と、専門教育における少人数の演習における受講生数をどう考慮すればよいのだろうか。

 以上、思いつくままに考慮点を挙げてきたが、もっと根本的な問題として、教員の研究・教育業績を研究費の配分という形で強化してよいものかという根本的な疑問が残る。

 周知のように、国立大学の場合、研究費は税金によってまかなわれる。それゆえ、研究費の使用目的は、あくまで、それが最も必然性のある形で適正に執行されることにある。いくら素晴らしい研究業績をあげたからといって、配分を受けた教員が適正にそれを使用しなければ大問題である。研究費の額が必要性でなく「ご褒美」的に配分されるとなれば、国家予算の適正執行という点から別の批判を招くことになるであろう。

 となると、本来、研究費というのは、何かの成果に対してどれだけ配分するかという発想ではなく、執行の適正さという点から評価されるべきであろう。いっそのこと、国立大教員の個人研究費の支出状況をネット上で完全に公開し、各教員が何を買ったか、購入したものをどう適切に活用しているのかをチェックしていくほうが望ましいのではないか、「ご褒美的な結果」は研究費の配分ではなく、昇給や昇任のほうに反映させるべきではないかと思うのだが、いかがだろうか。
【ちょっと思ったこと】