じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
菜の花。 |
【思ったこと】 _10409(月)[心理]象牙の塔と現場心理学(6)心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」(後編):関心のある現実とは? 4/6の日記の続き。4/9はちょうど新入生のオリエンテーションがあり、教員の自己紹介の際に私は、毎日Web日記を執筆していることと、その日記の中で、心理学専攻に入学した学生が感じるかもしれない「何かちょっと違う」現象を取り上げたことを披露した。 さて、こうした学生の「期待はずれ感」はどこから来るものなのだろうか。 私はこれまで、その主要な原因は、高校までに形成された誤解や過剰な期待に影響されていると考えてきた。 じっさい、心理学は高校の授業科目ではない。心理学という言葉を知るのは、まずは、週刊誌や通俗本やテレビの娯楽番組などであり、「心理学を学べば相手の心が読める」、「心理学を学べば心の悩みがすべて解決する」といった過剰な期待が形成されることは十分に考えられる。しかし、「期待はずれ感」の原因をそれだけのせいにしてしまってよいものか。 ここでもういちど論点を整理してみたい。まず、前回の引用に限って、心理学の研究に対する不満を集約すると
現実を扱わないがゆえに期待はずれ とは必ずしも言い切れないように思う。 では、関心をいだく現実とは何か。それは 自分が能動的に関わり、結果を得ている世界であること。 に尽きるのではないかと思う。行動分析で言えば、すなわち「関心をいだく現実とは、じぶんのオペラントが強化されている世界」ということだ。 自分が住んでいる世界であっても、能動的な行動が強化されなければ関心は示されない。自分の生活に身近に関係しているはずの政治に関心が高まらないのは、自分が何をしても変わりっこない(=自分の発するオペラントが強化されない)と受けとめられているためである。 次に、「関心をいだく現実」との関わりのなかで「心理学を学んでよかった」という満足感を与えるのはどういう場合か。それは 学ぶことによってもたらされる情報により、手がかりの不確実性、もしくは、結果が出現する不確実性が減少すること であると考えられる。 4/3の日記で、『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)をとりあげた。その中の研究の情報的価値に関連して市川氏は
俗流の心理「学」が週刊誌やTV番組で多くの関心を集めるのは、エセ心理学を知ることで、相手や自分の行動に関して与えられている手がかりの不確実度が減少すると錯覚してしまうためであろう。これは占いでも同じで、いかに非科学的であっても、迷いを消す効果をもたらすものは常に強化的である。 以上をまとめると、心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」を不満に終わらせず、「ああ、そうだったのか」という満足感をもって卒業させるためには、
ちなみに、「自分が能動的に働きかける世界」は個々人の生育歴の中でリパートリーとして形成されていくものであるため、時として非常に狭い世界に限定されてしまう恐れがある。趣味だけに生きる人もいる。象牙の塔に籠もってモデル構成に埋没する人にとっては研究対象だけが「自分が能動的に働きかける世界」になる。そういう意味では、学生の関心対象を固定化せず、関心対象を広げるための努力、言い換えれば、能動的な働きかけが強化される世界を広げる努力が別に求められると言ってよいかと思う。 |
【ちょっと思ったこと】
新庄は「chin-jaw」? 大リーグ・メッツの新庄選手がホームランを打ったという。その「シンジョウ」という名前だが、某同僚によれば、現地ではしばしば「chin-jaw」と発音されることがあるとか。 ここで「chin」と「jaw」は顔の特徴、さらに「chin」には「Chinese」の意味もある。あくまで某同僚個人の説だが、英米文化の専門家だけに、かなり信憑性は高いかも。かりにその説が妥当だとして、あくまで愛称なのか、蔑称なのか、日本人と中国人の混同によるものか、そのあたりのことは訊くのを忘れた。 |