じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] ヤマブキ。



4月6日(金)

【思ったこと】
_10406(金)[心理]象牙の塔と現場心理学(6)心理学専攻に入学した学生が感じる「何かちょっと違う」(前編)

 来週からはいよいよ2001年度の授業が始まる。この連載では過去3回、『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)をネタ本に、心理学研究の価値などについて論じてきたが、今回は前回の「実用的価値」を発展させる形で、心理学専攻に入学した学生が感じるかもしれない「何かちょっと違う」現象にふれることにしたい。

 「何かちょっと違う」現象は、佐藤達哉氏の『心理学で何ができるか一違和感分析への招待』[『現場心理学の発想』、やまだようこ編、新曜社、pp.31-52]から借用した表現。佐藤は、
  • 心理学科に進んだ直後の大学生は、「心理学を学べば相手の性格がわかるようになる」「心理学を学べぱ,自分の悩みが解決できる」といった心理学の素朴な効用を信じているが、1年間心理学科に在籍した後では、心理学の素朴な効用は信じられなくなっている。[東・橋本・加藤・藤本 (1994)のデータに基づく]
  • 心理学を目指す高校生は、ある意味で勘違いして心理学を志し、でも、まあいいかってことで心理学を学んで自分のものにしていくのである。
として、「心理学を専攻に選んで、首尾よく入学したけれど、何かちょっと違うと思っている君!」への呼びかけを行っている。

 尾見・川野(1994)[『心理学論の誕生:「心理学」のフィールドワーク』、サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博、2000、北大路書房に収録]は、
“心理学の研究に人間味がない"とか“現実味がない”“生活感がない"といったことを以前から時々耳にする。学部学生が心理学に対する失望の表現として口にするほか,心理学を専門とする研究者が心理学の現状を批判して表明することも少なくない。これらの批判の対象となっているのは,たいてい「実験(室)」「おもに統計的検定をよすがにした仮説検証」あるいは「数量化」といったものである。例えば,“現実の状況とはあまりにかけ離れた実験室実験の結果が現実に適応できるわけがない!"とか“むやみに個人差をつぶして一般化すべきでない!"とか“人の心を数字にして何がわかる!"などである。  
と述べ、問題の所在が実験研究や質問紙型の調査研究にあるらしいということを指摘している。

 下山(1997)[『現場心理学の発想』、やまだようこ編、新曜社、pp.53-62]は、保健管理センターの専任臨床心理士から大学の心理学の教員に転職するという自らの体験に基づき、大学の心理学教室で行われる教育・研究と、臨床場面での実践活動との違いについて次のように述べている。
大学で行われている心理学は,建前としては人間の現実を理解するための学問であるのだろうが,実際は現実を理解するのとは異なったこと,時には現実を理解するのに障害となることをしているのではないかとの危倶さえ覚えることがある。たとえば,心理学の専門雑誌で採択される際に重視される基準では,現場で役立つか否かということはほとんど考慮されていないことは,投稿した際の審査者のコメントや掲載される論文の内容をみれば一目瞭然である。[p.56]
 下山はさらに、心理学一般における臨床心理学について
しかし,話が心理学全般となると,実践や現場は重視されないどころか,逆にそれにこだわることは心理学一般で重視される科学的方法に抵触し,心理学的研究として評価を下げる場合がある。具体的には,実験法や調査法によるデータの収集と数量化されたデータの統計的検定にもとづく研究という心理学の王道を行く研究方法と臨床心理学の実践とでは,本質的に相容れない側面があるといわざるをえない。

  臨床心理学に関心を持って心理学関連の学科に進んだ学生は,どうも自分がやりたかったこととは違うなと思いつつ統計やコンピュータの勉強に取り組み,臨床心理関係の教官も心理臨床の実践には直接は役立たないと思いつつ,心理学の研究をするためには仕方ないと自分にも学生にもいいきかせて客観的な研究論文作成の指導に取り組んでいることが意外と多いのではないかと思う。このような現象は,科学的方法を重視する心理学一般の価値基準と実践を重視する臨床心理学の価値基準との本質的な相違に薄々気付きつつも,それを意識的な主題としない態度によって生じているといえる。[p.56〜57]
と述べている。「どうも自分がやりたかったこととは違うなと思いつつ」というくだりは、佐藤(1997)の「心理学を専攻に選んで、首尾よく入学したけれど、何かちょっと違うと思っている君!」という呼びかけと共通するところがある。

 今回は引用だけで時間が無くなってしまった。その対応策については次回に考えてみることにしたい。
【ちょっと思ったこと】

総裁有力候補の鼻っ柱

 自民党の総裁選の候補になりそうな人が複数取りざたされているが、日本人男性の平均的な容貌を基準とすると、有力なお二人は鼻が高く三角形型をしているように見える。派閥のリーダーになる必要条件なのか、それとも偶然の一致なのだろうか。

 もっとも、このお二人が辞書的な意味で「鼻っ柱が強い」(=強情で人に譲らない、きかぬ気である)と言えるかどうかは定かではない。日本の政治家というのは自分でやりたいことがあっても、「周りから推されたのでやむを得ず」という形をとるほうがポジティブに評価される。また、一貫した政治理念に基づかなくても、そのときどきの情勢に応じて「争いは避け話し合いで一本化すべきだ」、「なるべくたくさん立候補して政策論争をすべきだ」、「地方の意見をもっと聞くべきだ」などのレトリックを使い分ける。さらに、年配の有力者は何とかして世代交代を避けようとする。いずれも、本当は自分に有利な方法を導入しようとしているだけ。そして、競争で不利になると、「このさい党の団結を最優先に考えて立候補を辞退する」とか「対立を避けるために第三の候補で一本化する」などというレトリックが出てくる。こうした集団力学に基づく駆け引きはなかなか興味深いところがあるが、それによって、というかそれだけによって日本の総理大臣が決まってしまうというところは恐ろしい。