じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

4月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

[今日の写真] 前日は吹雪で何も見えなかったため、4/1朝に再度、鶴見岳に登った。期待通りの雪景色。隣の由布岳(写真左)の雪化粧の様子も間近に眺めることができた。写真右は鉱泥温泉(坊主地獄の隣)から眺める鶴見岳。 [今日の写真]



4月1日(日)

【思ったこと】
_10401(日)[心理]象牙の塔と現場心理学(4)南風原・市川・下山編『心理学研究法入門』(2)心理学の研究とは何か

 3/29の日記の続き。今回は『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』(南風原朝和・市川伸一・下山晴彦、2001、ISBN4-13-012035-2)の中の「第1章 心理学の研究とは何か」(市川伸一氏)について感想を述べたいと思う。なお、便宜的に、繰り返しコメントする予定の引用部については“【 】”というカッコつきの番号を文頭に付すことにしたい。

 さて、この章では、前書きにあたる部分で、心理学の研究を実質上次のように定義している。

【1-1】心理学の研究とは、心理現象についての日常的な認識を越えようとする営みである。

 この定義は、我々が分かっているつもりになっている現象や、ステレオタイプな見方を形成しがちな現象について、日常的な認識を越える何らかの検討を行うことを意味しているものと思われる。もっとも論理的には、この文は

超能力の研究とは、超能力現象についての日常的な認識を越えようとする営みである

と言っているのと大差ない。つまり、この定義それ自体は、心理学の研究の範囲を何一つ規定していないし、それを研究することの意義づけもなされていない。それゆえ、仮に超能力が心理学の研究分野に含まれると信じている人が居た場合、定義に基づいて「あなたの研究していることは心理学ではない」と断言することはできない。上記の下線部はどのような言葉にも置き換えられるという点で、少々難点があるようだ。しかも、この定義が成り立つためには、あらかじめ「日常的な認識」が存在していなければならない。脳や神経を直接対象とするような分野では「日常的な認識」が皆無に近いという場合もありうることに留意しておく必要がある。

 次に第1章の本文は
  1. 「こころ」についての知識
  2. 良い研究とは何か
  3. 心理学の研究の特徴とその過程
  4. 研究に向けての学習
という4節から構成されている。

 このうちの第1節では上記の心理学の定義の問題と同様、初めから「こころ」ありきとして出発し、後半部では「無意識」や「前意識」なども厳密な定義無しに使われている。研究の出発点ではそれでよしとすべきかもしれないが、もう少し別の定義は無かったのだろうか。私ならばおそらく、

心理学の研究とは、個人または集団が互いにどのように影響を及ぼし合うか、外界にどのように働きかけるか、その結果に応じて働きかけの質や量をどのように変えていくかを検討することにある。

というように定義するかもしれない(←あくまで暫定)。

 第一節の最後では「勉強と研究の違い」について語られている(p.3)。市川氏は、
  • 勉強とは、すでに蓄積されている情報を検索し自らの知識とすること。知識の吸収
  • 研究とは、自ら追究して何らかの結論を得ること。知識の生産。
と区別されているが、これも知識をどう定義するかによって意見の分かれるところであろう。おそらく
  • その集団の中ですでに知られている知識かどうか
  • 能動的な働きかけが十分にあるかどうか
  • 前提と帰結を一対一の関係として学習するか、帰結部分が未知(もしくは複数の候補のうちのどれか不明)という状態にあるのか
などの基準に基づいてこれらを区別しているのであろうが、例えば、
  • ロビンソンクルーソーのような漂着者が、無人島に生えている植物を、可食、不食、有毒に分類していくプロセスは「ひとりよがりの研究」と言えるのだろうか。
  • 言葉を使えない動物が能動的に働きかけならが行動を変えていく様は「ひとりよがりの研究」に分類されるのか
などと考えていくと、難しいところであるように思った。次回に続く。
【ちょっと思ったこと】

岡山に戻る

 別府から妻の実家のある北九州を経て、23時頃に岡山に戻る。今回は、中国道〜山陽道(佐波川、下松経由)を利用した。北九州の妻の実家から岡山のアパートまでは381.1km。高速料金は8050円。往路の山陽自動車道(宇部〜下関区間)経由(3/28の日記参照)と殆ど同じ(途中のSAの進入経路も含まれているので、どちらが長いか単純には比較できない)だが、料金は復路のほうが600円安かった。新道を通るメリットはあまり無さそうだ。