じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 粗大ゴミ回収の朝。3/3の日記に書いたように、4/1から家電リサイクル法(特定家庭用機器再商品化法)が本格施行される。岡山市ではこれに時を合わせて粗大ゴミ回収が有料化されるため、今回が最後の無料回収日となる。
当然のことながら、捨てられたゴミの量は従来の3倍程度。あふれた分が敷地の隅に一列に並べられていた。我が家では自転車2台とスチール椅子一脚を廃棄。ゴミ拾いは妻から固く禁じられていたが、こっそり、ラジカセ2台とスチール椅子1脚を拾ってしまった。どこに隠そうかなあ。←さらに、スキー板180cmと旅行鞄を拾ってしまった。



3月21日(水)

【思ったこと】
_10321(水)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(5)ファクトを重視する日本人?、「理」と「気」が豊かな韓国人?

 3/17の日記に引き続いて、『英語はいらない!?』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)から。

 今回は、本書の冒頭に記されている、日本は「フィクションよりファクトを重視する文明」であるという論考と、それに多少関連する韓国人の話題について考えてみたい。

 まず該当箇所を引用すると.....

 私がよく言うことの一つに、日本は事実(ファクト)に重きを置く文明であって、欧米や中国といったユーラシア大陸のそれは、基本的にはファクトよりもフィクション(言説、理屈、そして虚構)を重視する文明だというのがあります。...【略】
...考えられるすべての多様性を内包しながら、しかも相互が接触し混住するユーラシア大陸では、人々が結束しまとまるためには、個々の具体的な事実を超えた、理念的抽象的な次元での一致を求める方向に行かざるを得ません。......【略】

.....成員間の相違が比較的小さい日本は、言挙げ(フィクション)よりも互いに共有する事実(ファクト)にもとづく一体感に頼ることが可能な文明でした。ここでは「論より証拠」が決め手で、理屈や言説はむしろ無駄なものとして排除される傾向が強かったのです。しばしば耳にする「理屈としてはそうだが、でも事実は違う」といった表現は、一般に外国では矛盾と受け止められてしまいます。[p.6〜7]
となる。確かに、価値観や要請が多様であればあるほど、理念的抽象的次元での一致は求められるようになってくるだろう。暴力や戦争で要求を通せないとなれば、結果的に、理屈を並べて周囲を納得させ、多数派を形成してコトを通すしか道はあるまい。

 鈴木氏の「欧米:ファクトよりもフィクションを重視する文明」という御主張はこの点で納得できるところがあるが、いっぽうの「日本:事実に重きを置く文明」という部分はどうだろうか。

 ちなみに、鈴木氏がいう「事実」とはダイレクトな客観的事実そのものではない。「互いに共有する事実(ファクト)にもとづく一体感に頼る」という意味のようだ。つまり、「事実(ファクト)を大事にする」と言っても、「それはホンマに事実なんやろか」と、クリティカルな目で詮索するとは限らない。ムラ社会のみんなが錯覚していればそれも事実、幻覚でも幻聴でも奇跡でもみんなが疑わなければそれも事実となるのだろう。

 少々脱線するが、別スレッドで取り上げる予定の伊藤哲司氏の『“社会”のある社会心理学にするために』(『現場心理学の発想』第9章、やまだようこ編、 1997)の中に
「○○を信じる」というときに,これまでの面接調査の結果などから,どうやら2つの対照的な思考形態があるらしいことが分かってきた。ひとつは,その根拠などは考えず直感的に占いは当たるなどと考えるものである。女性や文系学生にありがちな思考で,半ばフィクションだと思っているところがあり,信じているといっても深入りすることはない。もう一方は,超能力の根拠が何であるかなどと因果的に考えるものである。男性や理系学生にありがちな思考で,あくまでノンフィクションであると思っており,この方向で信じると深入りする可能性がある。これらの方向性は一見逆なのであるが,巡って同じ「非科学を信じる」ということに辿りつく。[p.155]
という記述があるが、鈴木氏が「事実(ファクト)を大事にする」と言っておられるのは、このうちの前者の思考形態を意味しているのではないかと思う。要するに、「事実(ファクト)」と言っても、必ずしもノンフィクションとは限らない。フィクションも「事実(ファクト)」の一部として信じる直感的思考こそが「日本:事実に重きを置く文明」の真相ではないかと思うのだが、いかがだろうか。

 このことに関連して、3/18の朝日新聞読書欄で『韓国人のしくみ』(小倉紀蔵著、講談社現代新書)が紹介されていることを思い出した。「韓国人は感情的だ」と言う意見があるかと思えば、「いや理屈っぽい」という意見があるが、小倉氏によれば、相矛盾 する性格は、どちらも韓国人のものであり、それは朱子学に由来する「理」と「気」による二元論によって、最もよく説明できるという。ここでいう「理」と「気」とは...
  • 「理」:道徳性、いわぱ理念や理屈の分野
  • 「気」:物質性、身体性のこと。欲望や情の世界
であり、小倉さんによれば、だからこそ韓国人は理の領域では徹底した議論をする一方で、一転、人情昧豊かに、ときにルーズに行動するのだ、という。また、「この気と理がともに充実している人間こそ、民族の理想とされるという。」のだそうだ。

 「理」や「気」は、心理学で言えば構成概念であって、それを測定したり、包括的にコントロールしたり、何かを予想したり、あるいは複雑な行動の記述を簡潔化できる力があるならば、それなりに有用であるかもしれない。さっそく『韓国人のしくみ』を注文させていただいた。

 小倉氏はインタビューの最後のほうで、「日本人学生も、理や気が強ければ、外国語がもっと上達するのに」と言っておられる。小倉さんは、日韓の学生交流の中で韓国人学生の日本語の上達ぶりに驚かされという。上達の原因については「「理」の力である使命感を強く持ち、友人との積極的な付き合いで、「気」を充実させているからだ」という解釈をしておられるが、トートロジーにならぬようにうまく説明できるだろうか。いずれにせよ、韓国でどのような外国語教育が行われているか、この連載に限って言えば、韓国人は日本人より上手に英語をしゃべったり書いたりできるのか、という点についてはもう少し資料を集めてみたいと思っている。
【ちょっと思ったこと】

Mrマリックの手品

 夕食時に「Mrマリックの超魔術徹底解剖スペシャル2」というTV番組を見た。いくつかの簡単な手品についてはタネ明かしがあり、そちらのほうが興味深かった。

 なかなかよく出来ていると思ったのは、2人の参加者のロープを引っ張ってもらい、その上に布をかけてモソモソやると、タネもしかけもないリングがロープに通されているという手品。タネは→(マウスでなぞってください)
布を被せている間に、マリックがロープの端のほうを忍ばせてあったハサミで切ってリングを通す。切る部分の両端をマリックが巧みに引っ張っているので、参加者は切られたことに気づかない。布を外してリングが通ったことを見せる直前に、切られた短いほうのロープを巧みに隠し、残りの部分が元のロープであったように見せかける。
というもの。

 このほか、コップの中のサイコロの目を当てる手品(実際は、親指で隠した小さな穴からコップの中を覗いている)とか、小さな黒板にチョークで書いた文字がロープに化けてしまう手品(文字を描いた板だけ机の上に落とすが、板の裏側が机の上の新聞紙と同じ図柄になっているため気づかれない)なども、さすがよくできていると思った。

 今さら知覚心理学の登場を待つまでもないが、我々が「見た」と思いこんでいる世界は、実際に網膜に届いている刺激情報のほんの一部にすぎない。情報の簡素化や「先読み」、「補い」があればこそ、速やかに環境に対処できるのである。一般人が普通、情報として利用しない部分(「気づかれない部分」)をいかに細工するかが手品師の腕の見せどころということになるのだろう。
【スクラップブック】