じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 洋蘭の花が咲いた。昨年春に行きつけの花屋の処分品として売られていたもの。屋外の風通しの良い日陰で夏越しさせ、11月頃から窓辺の日当たりのよい場所で育てたのがよかったようだ。たぶん、「デンファレ」というデンドロビウムの一種。



2月19日(月)

【思ったこと】
_10219(月)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(2)実験心理学のジレンマ

 昨日の日記の続き。今回から数回程度にわたって、広島大の柳瀬陽介氏の随想を引用させていただきながら、心理学の実験研究における「象牙の塔」問題を考えていきたいと思う(不定期連載)。

 規則的更新だけが取り柄の私のWeb日記が、日々の思いつき、断片的知識の備忘録、一言居士的なコメントに終始しているのに対して、柳瀬氏の随筆は、緻密な論考の集積であり、読む人に有益な情報を提供している。こういうサイトを拝見すると、大学教員がネット上で公開すべきコンテンツは、「量ばかり多くて内容の無いWeb日記」よりも「量は少ないが質の高い随筆」であるべきかなどと思ってみたりもする。もっとも私のような駄文書きにとって今さら質の向上をめざすのは至難の業である。

 さて、時間の関係で、今回は、心理学の実験研究に関する柳瀬氏の論点を私なりに復習してみたいと思う。

 柳瀬氏は、第39回(2000年度)JACET(大学英語教育学会)全国大会(於:沖縄国際大学)で行われた「ワークショップ 外国語効果」の御発言の概要“「外国語効果」に関する英語教育の立場からの批判的考察(2000/11/1) ”の中で、高野陽太郎氏の「外国語効果」に関する論文を引き合いに出されながら、心理学における実験的研究の問題点を次のように論じて居られる。
高野さんは心理学の論文として「外国語効果」を論じていますが、私からしますと、心理学の論文は、厳密な定義と手続きのもとに心理学者の間で語られている場合は全く問題を引き起こさないものの、しばしば日常概念を扱うため、心理学者の言語ゲーム以外の日常の言語ゲームにしばしば越境してしまい問題を引き起こすように思われます。

高野さんの論文で言いますと例えば「思考(力)」という概念です。高野さんが論文で、この「思考(力)」を注意深く操作的に定義し、その論文を読む心理学者も、その操作的定義に敏感に読解してゆくのなら問題はないのでしょうが、「思考(力)」といった概念は日常言語でも多用されるため、高野さんの論文の結果は、高野さんの厳密な操作的定義を離れて、曖昧に拡張されて語られ、過剰な解釈を生み出してしまいかねません(実際にその懸念があるというのが私の実質的な主張です)。

言ってみるなら心理学はジレンマを抱えているように思えます。心理学は「科学」であらんとするためしばしば、(実は曖昧でしかない)日常の心理概念を、厳密に操作的に定義しなければなりません。しかし一方、心理学が日常行動を行なう人間の学であるためには、その厳密に定義された概念も、曖昧な日常言語の中に埋め込まれられなければなりません。曖昧な概念を厳密に定義し、そうして得られた結果をまた曖昧な諸概念の中に戻さなければならない----これが私の考える心理学のジレンマです。
 この種の問題は私自身も感じている。よくあるのは、因子分析だ。それぞれの因子に日常言語でも多用される概念でネイミングをしてしまい、それが考察の段階でいつのまにか説明概念に化けてしまったり、「曖昧に拡張されて語られ、過剰な解釈生み出してしま」う。かといって、厳密な定義の枠にとどまっていると日常生活については何も語れない。語ってもすべて論理の飛躍した例え話になってしまう。卒論研究や修論研究では特にこの点が問題となる。

 もう1つ、上述の「何とか力」について柳瀬氏は、“空虚概念としての「オリンピック能力」あるいは「コミュニケーション能力」(1999/7/13)”、“「コミュニケーション能力」に関する覚え書き(2001/1/30)”という興味深い議論を展開しておられる。 私自身が1/16の日記で書いた“「○○力」は流行り言葉?”、あるいは「万能な」創造性についての疑問には、柳瀬氏と共通した考え方が含まれているように思った。

 さて、柳瀬氏は同じ論考の後半部分で、科学としての心理学について、次のような疑問を呈しておられた。
.....複雑性、不確実性、不安定性、独自性、価値葛藤に満ちている現実の問題に関して、科学としての心理学は、なんらかの科学的な結論を出せるのだろうか、ひいては科学的な心理学は英語教育研究のモデルであるべきなのだろうか、.....
そして、チョムスキー(柳瀬氏の呼称にしたがえば「チョムスキーさん」)への引用の途中で、
日常的な意味での人間に関する研究を、自然科学ではない、歴史研究、法解釈、事例研究、アクション・リサーチ、(良質の)ジャーナリズムおよび評論といったものに代表される一連の批判的言説と認識し、その範囲内でできるだけ客観的で公正な議論を行なう方が、生産的であり、なにより学問的に正直な態度だと思います。
という私見を述べられ、最後に
英語教育研究は徒に自然科学であるふりをして「科学的手続き」に拘泥すべきではない。少なくとも他の種類の批判的な研究アプローチを「科学的手続きを取っていないから」という理由だけで、学会やジャーナルから排斥するべきではない。むしろ対象概念が一義的ではないのに「科学的手続き」を適用することの方が非科学的である。英語教育研究は、自然科学からは「自由に」、批判的な考察を進めるべきである。
としめくくっておられた。あくまで英語教育の立場から実験心理学の意義と限界を論じられたものであるとは言え、いま上にも引用させていただいたように、「日常的な意味での人間に関する研究」はすべて同じ議論の遡上に乗せられていると言ってよいだろう。そういう意味では、「ボクシング選手に関節技をかけるような真似をする」どころか、ボクシングの試合をリングの土台ごとひっくり返すぐらいの重要性をもった、心理学者に対する警告としても受け取れる。

 時間が無いので今回はここまでとさせていただくが、柳瀬氏の論考で1つだけ残念に思うのは、スキナーの著作が1つも引用されていないことだ。せめて『科学と人間行動』だけでも考察に含めていただければ、と願わざるを得ない。なお、心理学における実験的方法の意義と限界についての私の考えは、こちらにある。ご参照にしていただければ幸いです。
【ちょっと思ったこと】