じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 東京・八王子の大学セミナー・ハウスで見かけた冬鳥。湿地でエサを捜していた。残念ながら名前を確認できず、接近したら逃げられてしまった。どなたかお教えいただければ幸いです。



1月16日(火)

【ちょっと思ったこと】

まだまだ若い?

 昨日の日記に「風邪でダウン」と書いたが、月曜日の昼から20時間近く寝ただけで何とか快復した模様。薬は全く飲まなかった。あっさりと熱が下がったところからみて、インフルエンザではなさそうだ。自力で快復できるとは、まだまだ若い。

 もっとも、クリティカルな見方をするならば、氷点下の寒風に晒されたぐらいで体調を崩すなんていうことは昔には無かった。こんなことでダウンするのは「もう年だ」と言えないこともない。ま、なるべくポジティブに考えていくべきであろうが。




年賀状の抽選

 一日前のことになるが、お年玉付き年賀はがきの当選番号の記事を見ていた息子が「やったー!」と大声で叫んだ。ところがしばらくして「なあんだー」というため息に変わる。自分で受け取った葉書の中に末尾が「735」で終わる葉書があり思わず2等かと思ったが、よく見たら下4桁目の数字が違っていたためであったようだ。妻も娘もみな「惜しい」と口を揃える。。

 しかし考えてみれば、当選番号というのは単なる名義尺度に過ぎない。数字が近くても遠くても外れは外れだ。サイコロで「3が出たら当たり」という場合、4を出して外れた場合と6を出して外れた場合で「4のほうが惜しい」とは言えないのと同様。もっとも宝くじのように、10等分した円グラフのような図形に矢を射って当選番号を決める場合には、回転のタイミングのちょっとしたズレで当選番号が1番ずれるということもある。その場合には、「あとちょっとズレていたら当たりになっていた」という意味で惜しいと言えないこともないが....。

 余談だが、もしこの2等が当たっていた場合の商品は、「デジカメ、電子辞書、携帯液晶テレビ、折り畳み自転車、空気清浄機、ふるさと小包6個の中から1点選択」と記されていた。ということは2〜3万円相当の品ということか。最初「ふるさと小包6個の中から1点選択」というのがずいぶん貧弱に見えたが、これは小包6個から1個選ぶという意味ではなく、6個全部を貰えるという意味なのだろう(でなければ3等と同じになってしまう)。ま、貰えなかったものをあれこれ言ってもしょうがない。ちなみに私の人生では未だかつて2等以上は当たったことがない。1等が当たったら次は宝くじを買おうと思っているのだが。



国内地震のワースト10

 1/17は阪神淡路大震災から6年目にあたる。このことに関連して、1/17の朝日新聞に「20世紀の国内の地震のワースト10」の図が掲載されていた。犠牲者の多い順では、第1位が関東大震災の14万2807人、第2位が阪神淡路大震災の6435人となっていたが、意外だったのは、ワースト10の中に、福井地震(第3位)、北丹後地震(第5位)、鳥取地震(第9位)、北但馬地震(第10位)というように、山陰から福井に至る地域で被害の大きかった地震が4回も起こっているということだ。大地震というとどうしても太平洋側が危険地域のように思ってしまう。確かに規模だけを比較するとマグニチュード7.9以上の巨大地震はいずれも太平洋側で起こっているが、被害の大きさで見る限りは日本海側の地震も軽視できないように思う。

【思ったこと】
_10116(火)[一般]「○○力」は流行り言葉?

 大学セミナー・ハウスで行われた第21回教員研修プログラムの主題は「大学の教育〜カリキュラムに求められるもの〜」、その際に全員に配られた本のタイトルは『大学を創る』だった。そういえば、最近、Web日記のタイトルにも「文章」なんていうのがあった。少し前には「老人」というのもあった。「○○」というのは流行り言葉なんだろうか。

 ところで、ある種の行動や機能に関連して「○○力」という言葉を使うことにはどういう意味があるのだろうか。「力」から連想されるのは、
  1. 内に秘めた強さ
  2. 普遍性、一般性をもった強さ
  3. 量的に大きさを比較でき、かつ大きいほどよいとされる
  4. 努力することで、ある程度強めることができる
ということ。例えば大相撲で「力があるから勝つ」と言った場合、その力士からは内に秘めた物理的なエネルギーや筋肉の強さのようなものを感じさせる。大概の相手に対してその力が通用するという点では普遍性や一般性があるとも言えよう。逆に、まぐれで勝った場合、相手が不調の時に勝った場合は力があったとは言えない。同じ特徴は「学力」、「精神力」、「影響力」、「英語力」、「思考力」、「体力」、「行動力」などについても言える。

 「○○力」に相当する英語としては「power」があるが、「英語力」はいくらなんでも「English power」とは訳せないだろう。辞書によれば「a novel of great power」は「影響力の大きい小説」と訳されていたが、「a university of great power」なんていう言葉もあるのだろうか。日本語の「○○力」のほうが造語力があり、「それってなあに?」という曖昧さを含んでいるようにも思える。

 「○○力を創る」、「○○力を鍛える」、「○○力を伸ばす」などを科学のレールに乗せるためには、少なくとも、その「力」の及ぶ範囲と、その「力」を測る手段を確保しておく必要がある。しかし、この話題を取り上げるきっかけとなった「教育力」や「大学力」を見てもわかるように、実際には、「○○力」について語る時にはその内容はまだ明示されていない場合が多い。つまり、
  • 改善すべき行動や機能を「○○力」というテーマで語ることにしましょう。
  • 「○○力」を伸ばすことは良いことだ。これを参加者の暗黙の了解事項としておく。
  • 「○○力」の内容は議論の中で具体化する。
という形をとるように思える。そこで、この種の議論で引き出される結論は、
  • 形だけのシンポの場合は、「○○力」の意義がよく分かった。今後もこれを伸ばすために議論を進めましょう。という自己満足・循環論的な帰結。
  • ある程度議論が進んだ場合は、「○○力」の具体的内容として、次のような点で合意が得られた。という建設的な発展。
という、いずれかに落ち着く。「○○力」を伸ばすための方策まで検討されることはなかなか難しいのではないかと思う。

 「○○力」というテーマで議論を進めることに弊害があるとすれば、それは、上に述べた特徴の裏返しとして現れるだろう。すなわち
  1. 内に秘めた強さ←外部環境とのインタラクションを見落とす恐れ
  2. 普遍性、一般性をもった強さ←状況、文脈の軽視。一般性の過信
  3. 量的に大きさを比較でき、かつ大きいほどよいとされる←多様性の軽視
といった問題が考えられる。

 それはそれとして、なぜいま「○○力」なのか。長引く不況、株価低迷、フリーター増加、少子化.....というように、日本はいま、戦後かつてないほど大きな困難に直面し解決の糸口を見いだせない状態にある。そういう時にせめてもの慰めになるのが地力の養成だろう。つまり「こういう努力をしても即効性は無いが、いつかは役に立つ時がくる」という言い分だ。弱さがあらわになればなるほど、こうした風潮は強まるかもしれない。