じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 農学部農場のキャベツ畑の中に、なぜか葉の色の違う株があった。突然変異なのか? それとも何かの実験のためなのだろうか。 [今日の写真]



2月18日(日)

【思ったこと】
_10218(日)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(1)

 卒論研究のコメントを連載していたために取り上げるタイミングを逸してしまったが、2/14の朝日新聞文化欄に“「世間」とズレた大学改革〜制度より学問の論議を”という主張が掲載されていた。執筆されたのは阿部謹也・共立女子大学長。阿部氏は一橋大学学長や国立大学協会会長を歴任された方でもあり、最近では各地で独立行政法人化に関する講演で全国各地を巡回されていると聞く。

 この記事の中で阿部氏は、
  • 高等教育の危機は少数の大学人には深刻な問題となっているが、一般の人々には対岸の火事程度にしか受けとめられていない。
  • 国民の大多数は国立大学の独立行政法人化についてほとんど関心を持っていない。
  • 人々は子弟の大学入学には関心があるが、その大学でどのような研究が営まれているかという点についてはほとんど関心がない。
というように論を進め[いずれも長谷川による要約]、国民の無関心である原因として、学問論と結びついた大学改革の議論が行われていない点を批判しておられた。では、なぜ国民は大学における学問に関心がないのか、これについて阿部氏は明治以降のわが国の学問のあり方を次のように再検討しておられる[いずれも長谷川による要約]。
  • 明治以降の近代化、すなわち欧米化政策の中で、文字と数字によって表現され、論 理を重んじるシステムが大学に取り入れられた一方、言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現することが出来る歴史的・伝統的システムを、遅れたものとして無視しようとしてきた。
  • 学者達は自分自身が歴史的・伝統的システムの中で暮らしていることを無視して、あたかも近代化がすべての生活分野を覆っているかに錯覚し、ヨーロッパ伝来の学問をそのままわが国の大学において営んできた。これにより、国民の実際の生活世界である「世間」は学者達によって無視されてきた。その結果、大学で営まれている学問は国民の生活の実情から遠く、象牙の塔の営みと化してきたのである。

 近代化のシステムと歴史的・伝統的システムの不一致の事例として、阿部氏は、国会議員の、選挙区で使われる「世間」の言葉と近代化の論理が求められる国会での言葉の不一致を挙げておられた。しかし、せっかく学問のあり方を論議すべきところで、政治家の発言を引き合いに出されたのは場違いであり説得力に欠けるように思われた。紙面の都合や読者層を意識するとやむを得ないのかもしれないが、あくまで「学問と生活」に関係づけながら議論を進めてほしかった。

 もう1つ。象牙の塔が「言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現されるは歴史的・伝統的システムをわが国の遅れとして位置づけ、無視しようとしてきた。」ことによってもたらされたと言えるかどうかは大いに疑問が残る。阿部氏が言及された2つのシステムは、意思決定や合意のシステムとしては明らかに異質ではあるものの、それらを対象とした研究の方法そのものを固定するものとは言い難い。少なくとも行動科学では、「言葉と動作、義理人情と宴会などによって表現する」こと自体を、「文字と数字によって表現され論理を重んじるシステム」によって分析、記述する試みが行われているからだ。

 「象牙の塔」の原因は、「近代化のシステムvs歴史的・伝統的システム」という対立の中に見出されるのだろうか。私はむしろ、人文社会科学系の研究者たちにとって、現実や実践場面と切り離された世界に籠もったほうが出世しやすい環境があったためと考えるべきではないかと考える。ここでは心理学の中の一定の範囲についてしか議論できないが、「象牙の塔」の原因は、研究の方法の選択の仕方、及び研究成果の評価の方法にあるのではないかと私は思う。

 この「象牙の塔」に関連して、広島大の柳瀬陽介氏がネット上で興味深い議論を展開しておられることを最近になって知った。次回(ただし不定期連載)は、その部分を引用させていただきながら、
  • 「科学」であらんとするためのジレンマ
  • 日常言語によって織り成される「現場」を対象とする立場
  • 批判的方法と自然科学的方法
  • アクション・リサーチ
などの問題を考えていきたいと思う。
【ちょっと思ったこと】

森内閣の支持率9%

 朝日新聞が2月17日と18日に実施した電話による世論調査によれば、森内閣の支持率はとうとう9%に落ち込み、1989年4月の竹下内閣支持率7%に次ぐ戦後2番目の低さになったという。不支持率は79%、与党支持層でも6割が不支持を表明しているという。

 それにしても10人に1人も支持しない内閣が存続しているというのは奇妙なことだ。反対者をすべて弾圧する軍事独裁政権ならば「本音支持率9%」ということもありうるとは思うが、国民の多数が公然と首相の悪口を言いながら、それでいて内政の大混乱が起こっていないというのは、まことに日本的であると言わざるを得ない。

 ではなぜ森内閣は存続し続けているのだろうか。
  • 1つは、与党に向けられた批判すべてを森首相の個人責任に転嫁してしまい、いずれタイミングを見計らって首相交代による支持率回復を狙うというもくろみが与党内にあるらしいということ。
  • 代わりの候補が見つからないこと。「総理大臣にだれが一番よいと思うか」という問いに対しては、今回は、田中真紀子氏が10%、小泉純一郎氏が8%、石原慎太郎氏が6%などとなっているものの決定打が無い。急浮上した野中広務氏は3%。前回11月の調査で第二位の7%を獲得した加藤紘一氏は1%に激減している。
 こう考えてみると、今さらながら、加藤紘一氏の世紀末の失態はまことに悔やまれる。あの場で、自分一人だけでも不信任票を投じていたらば、不信任案が否決されていたとしても今頃はもてはやされていたはずだ。政治家にとっては、やはり「タイミング」と「周囲への分かりやすさ」が大切ということか。