じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
モミジとラベンダー。毎年この季節だけに見られる色の取り合わせだ。 |
【思ったこと】 _01129(水)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(9)同一人物であることにアッと驚く 昨日の日記で、岩谷宏『にっぽん再鎖国論 〜ぼくらに英語はわからない〜』(1982年、ロッキング・オン社)のことを取り上げた。そのさい、岩谷氏について その道では著名な方なのだろうが、音楽界に疎い私にとっては全く未知の方であった。と記したが、その後Googleを使ってネット上で検索してところ、こちらの記事などから、じつは、昨日とりあげた岩谷氏と、パソコンやネットの御発言で有名な岩谷氏は同一人物であることが分かった。 言い訳がましくなるが、別人物であろうと思い込んでしまった理由を挙げてみると
21世紀以降の人類の最大の課題が、貨幣制度の廃棄である。そしてこれに次ぐ大きな課題が、戦争と犯罪の絶滅である。この後者の課題の実現を、前者、すなわち貨幣の廃棄が大きく助ける。とあるが、“英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”という発想がネットとどう関係してくるのかがさっぱり分からない。このほか、エコマネーに関心を持っている私としては、なぜ貨幣制度の廃棄が人類最大の課題になるのかも現時点では理解しがたい。とりあえず最近の御著書を2冊ほど注文してみたので、入手しだいその根拠をさぐってみたいと思う。 11/20の日記の後半に記したが、私が「モノ」、「コト」にこだわるのは、この発想が、実験心理学とか行動分析における刺激、反応概念の再構築にとってきわめて重要ではないかと考えるからだ。いっぱんに刺激や反応は、きわめて「モノ」的に扱われてしまう。というか、独立変数とか従属変数という扱い自体が、世界から切り離されたパーツの存在を前提としている。ところが、強化、好子や嫌子、随伴性という概念を正しくとらえるためには、どうしても「コト」的な概念的枠組みが必要になってくる。このことは以前から何とかしなければならないと思っていたことであり、1/17の日記で 【好子や嫌子に関して】なぜ長年行動分析学を学んできた卒論生でも取り違えが起こりやすいのだろう。どうやらそれは、「好子」「嫌子」という定義そのものが招いた混乱ではないかと最近思うようになった。「刺激・出来事・条件」という生活体から独立して定義、かつ操作できる事象と、生活体の行動変化を観察して初めて知ることのできる機能を1つの概念の定義に含めてしまったことが混乱の最大の原因ではないかということだ。と記した時に言いたかったのはまさにそういうことだった。つまり、本来コト的に扱うべき「好子」や「嫌子」がモノ的に扱われることが混乱を招いているのではないかということであった。 |
【ちょっと思ったこと】
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【スクラップブック】
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