じぶん更新日記

1997年11月分
Y.Hasegawa


文中のリンクについてはメンテを行っておりません。ご了承ください。

971130(日)
[日記]11月の日記界をふりかえって(前編)
 毎月末に「日記界をふりかえる」シリーズを始めて6回目になるが、今月は11/12に「伝言板書き込み自粛宣言」を出してから裏日記の充実に励んだため、改めて振り返ることはあまりない。そこで今回は、2回程度の連載に縮小して、全般的なできごとを書いていくことにしたい。
 まず、日記猿人の登録数であるが、11/1朝現在の登録番号は1081番まで、実質で936本(管理者用を除く)、11/29には、これが1169番まで、実質で1008本になっていた。実質日記数が1000本を越えたのは、1160〜1161番の日記が登録された頃であるから、たぶん先週のどこかの時点であろうと推測される。またこの1カ月間で、登録番号で88、実質で72本増加となっている。11月3日の記事で
9月29日夕刻がが865本、11月1日朝が936本であり、実質71本の増加(ということは、11本の離脱があったことになる)。このぶんでいくと、来月初めには、実質の日記数も1000本を超えることになるだろう。
と書かれてあったことと比較すると、1日あたりの新規登録数は、先月の2.15本から2.48本に上昇した半面、離脱数も11本から88-72=16本に増加した点がちょっと気になるところだ。

 次に「読んだよボタン」ランキング参加の動向について。図1に、トップのななゑさんの日記の得票数の推移と、毎日のランキングで2票以上獲得した方の人数の推移を示す。ところどころ抜けているのは、出張不在中あるいはネットの事情等でデータがとれなかった所である。
 ななゑさんの日記の得票については、10月30日の日記で、10月下旬から急激に得票が増加したことを指摘したが、図にあるように、11月はデータを集めた22日間中、80票以上が13回日で100票以上が3回もあり、安定した得票数を維持している。文学的才能に裏打ちされた軽妙で読者を引きつける文章といい、HTML文書作成の技法といい、また日記を続けること自体の持続性といい、ランキング参加日記の中でトップを走るのにふさわしい日記であることは間違いないと思う。
 次に同じ図で、2票以上の得票者の人数の推移を見ると、中央値は113人から157人のあいだを推移しており、その中央値は134人であることが分かった。10月30日の日記によれば、7月、8月、9月、10月の中央値(但し、各5日間程度のサンプリング調査)は、127、131、134、130人ということであるから、こちらはあまり増えていない。ななゑさんの日記を除けば、登録日記数が増えたわりには、投票活動のほうは必ずしも活発になっていないようだ。

 他の方の得票ばかりネタにしていては申し訳ないので、この日記の得票の推移を図2に掲げる。
 こちらは、最近の平均株価動向に似ていて、どちらかと言えば右下がり傾向が続いている。このうち比較的得票の多いAの部分は、先月の日記読みシリーズ、Bは例の「伝言板書き込み自粛宣言」、Cからは「新聞記事引用・転載と著作権問題」シリーズが始まっている。以前、フランケンさんの日記に「適度な投票は作者を元気付けますが、過度の投票は作者を思い上がらせます...」という断り書きがあったが(最近はこの断り書きは消えているようだ)、ななゑさんのようなスーパースターを除けば、これは日記作者にとってのよい訓辞であると思う。で、私の場合は、いちおう15票を目安に、それより低ければ内容が独りよがりであったと反省し、20を越えた時は悪のりを自戒することにしている。但し、得票がどうなろうとも、書きたいことがあればそれを優先することにしている。
 この日記にはカウンターもつけている。いずれ得票数との関係を分析したいと思っているのだが、こちらは山口大学からの借り物で、時たまアクセス不能になることがあって必ずしも安定したデータがとれていない。おおむね80-110/日になっていることは確かだ。
 時間がなくなってきたので、明日へ続く。
まごちゃんは75歳、65g。


971129(土)
[一般]聞き間違い、言い間違い
 11/28付のごまさんの日記で、聞き間違いの話題が取り上げられていた。 英語は母音も子音も日本語の体系と違っているため、いったん違った音として聞いてしまうと、いくら文字でこうだと教えられても、どうしてもそのとおりには聞こえないということがあるようだ。
 じつは、この「じぶん更新日記」の第一話(5/6)も、ラジオの「英会話入門」で「Okey-doke」を「ドッキドッキ」、基礎英語2の「Feel the Rhythm!」を「シーユーホールダム」と聞き間違えていたという話題から始まった。
 また、昨年、私のホームページで、息子がオーストラリアのホームスティをした時の話題を期間限定で紹介したことがあった。ホームスティは、日本人の子ども2人1組で滞在するものであったが、なかなか返事ができない。そこで、滞在先の両親が、「はいですか、いいえですか?」と返事を促す意味で、「はい or いいえ?」と日本語チャンポンの質問をした。息子の相棒はこれを「早う言え」と言われているものと勘違いして、ますます返事に慌てたとか。
 この「早う言え」という聞き間違いは、関西弁でないと起こり得ない。私が学生時代にも、関西弁ならではの聞き間違えというのがあった。私は、学生・院生時代は、心理学といっても、もっぱら動物を被験体とした実験をやっていた。この実験室には、蜂屋という名前の後輩がいた。ある時、この後輩を呼びに来た別の学生が、実験室の廊下に響きわたるような大声で「ハチヤー」と叫んだところ、隣の職員休憩室から女性職員たちが慌てて飛び出してきたのである。これは「ハチヤー」を「火事やーっ」と聞き間違えたためであることが判明したが、東京の大学ならこういうことは起こらないだろう。

 「聞き間違い&思い込み」は、歌詞では、ずいぶんあるような気がする。だいぶ昔に、新聞記事に書かれてあったように記憶しているが、食糧難の時代に育ったある女性は、『もみじ』の歌で「濃いも薄いも」を「小芋、うす芋」だと思い込んでいたとか。また、あるタレントさんは、『巨人の星』の主題歌の出だしの「思いこんだら...」を「重いコンダラ」だと思っていたとか。この場合、「コンダラ」というへんてこな名前は何かということになるが、ちょうどテーマソングが流れる時に、星飛雄馬が、ローラーを転がしてグランドを平らしている場面が出てくるので、このローラーのことを“コンダラ”と呼ぶのだと思い込んでいたのだそうだ。
 私自身も、『どんぐりころころ』で思い込みをしていた。自分の子どもと一緒に歌うようになってから、あれっと思ったが、私は子どもの頃から「どんぐりころころ、どんぐりこ」と歌っていた。もうひとつ、『ふるさと』の歌の「ウサギ追いし」を「ウサギ美味し」とする思い込み、これは大概の人にあったのではないだろうか。

 聞き間違いをしていなくても、記憶が変容する中で言い間違えが起こることもある。以前に、古川さんが「アムラーのスタイルで何が悪いんや」という日記を書かれたことがあった(6/19)。この日記には、アムラーとシノラーが出てくる。アムラーのほうはさすがに知っているが、シノラーというのは見たことがない。にもかかわらず、授業で知ったかぶりをして、オヤジ論をぶちまけたことがある。問題は、「シノラー」をいつの間にか「シムラー」に言い間違えていたことだ。学生が変な顔をしているのでおかしいなあと思っていたが、授業の後で親切な学生から「シムラー」というのは志村けんのことだと教えてもらった。

 漢字熟語なども、あまり自分で使わず、国語テストで一度も出題されていなかったりすると、誤りが固定化されることがある。私が大学生の頃まで間違って読んでいたものは、「席巻」、「ご愛顧」、「備忘録」など。「席巻」は「度巻」と書かれてあるのだと思い込んでいて「どかん」と読んでいた。「ご愛顧」は「ご愛願」と勘違いして「ごあいがん」、「備忘録」は、なぜか「びしゅうろく」と読んでいた。他にも、ワープロを使いだしてから、目的の熟語が漢字変換されないことで誤りに気づくことがある。「女王」を「じょうおう」、「体育」を「たいく」、「普及」を「ふっきゅう」などとする読みぐせは、ワープロを使いだして初めて気づいた。

 余談だが、もうすぐ長野オリンピックが始まる。男子滑降コースで話題となっている会場は、長野県白馬(はくば)村にある。村の名前は「はくば」だが、白馬岳やそれに関連する地名は「しろうま」と読まなければならない(田植えの頃、雪渓の形が馬に似ていることに由来する名前だから、「苗馬」つまり「しろうま」でなければ意味が通じない)。このあたり、テレビでちゃんと発音してくれるかどうか、気がかりなところだ。
まごちゃんは74歳、65g。


971128(金)
[日記]40年前の初めての日記
 東京の実家の本棚の一角には、未だに私の子供の頃の品がいくつか保管されている。結婚後、ずっと狭いアパート暮らしをしているので、特別に頼み込んで置かせてもらっているのだ。図鑑とか児童書類は、甥たちや従兄弟たちの子供にやってしまって殆ど残っていないが、絵日記、アルバム、「こどものとも」の一部(創刊号もあった)、教科書類だけは、さんざん文句を言われながらも捨てられずに残っている。先日東京に行った時に、その中からいちばん古い絵日記を探してみた。

 現存する私の絵日記の中で、いちばん古かったのは、幼稚園年長組の夏休み、つまり今から40年前に書かれたものであった。これが、記念すべき最初の絵だ。本文は、次のように書かれてあった(誤字も原文のまま)。
 7月21日 あめふったりやんだり
 ぼくは、ぱぱとすもうをみました。どちらがかつかまけるか、あてっこをしました。
 わかのはなが いうしょうしました。

 ここにある「若乃花」は、もちろん、「栃若」時代の若乃花のことである。この時はテレビはまだ貴重品。普段はラジオで聞き、千秋楽の日だけ近所の家に押しかけていって見せてもらっていたように記憶しているが、定かではない。

 つぎに世田谷区在住の方にぜひ見てもらいたいのが、この絵だ。
 7月24日 きり
 ぼくは、はねきこうえんにいきました。
 そしてあなぐらにはいりました。けれどぐちゃぐちゃですから、あなぐらにはいるのは、やめたのです。それからうちのせきせいが よんわになったのです。もういちわは、ちゅうだんにのぞいているのです。
 昨年の10月、30数年ぶりに、この羽根木公園を訪れて唖然としたことがあった。私が子供の頃は、この絵日記にあるように、どこもかしこもススキの山で、頂上からどの方向にも自転車で駆け下りることもできた。今は、うっそうと木が茂っていて、これが同じ場所かと目を疑うほどであった。私の数少ない「浦島太郎体験」の1つと言えよう。なお、本文に書かれてある「あなぐら」というのは、コンクリートのトンネル迷路のようなものだが、壁が色づけしてあったものの、ほぼ同じ位置に同じようなトンネル迷路が残っていた。まさか、あれがそのまま残っているとは思えないが、確かにあの場所にあった。

 もうひとつ、この絵この絵は、同じ日に描かれたもの。本文には
 8月5日 ときどきあめ
 ぼくは、しらゆきひめのえいがをみにいきました。
とだけ書かれてある。また、周囲に貼ってある小人のシールには「白雪姫日本語版公開記念」と記されている。この映画、私の子どもたちにもビデオで見せたことがある。親子二代にわたって感動を与えたアニメを作るとは、ディズニーもさすがだ。
 さて、この絵日記帳だが、7月21日から書き始め8月20日で1冊目が終わっている。この間、1日も休みなし。その後、小学校2年ぐらいまで、殆ど毎日書き続けていたようだ。自慢話になってしまうが、昔から継続性は抜群だったようだ。
まごちゃんは73歳、65g。

<追記>gooで「羽根木公園」を検索したら44件がヒットした。とりあえず、最初の2〜3件にアクセスしてみた。

971127(木)
[一般]新聞記事引用関連特設ページ

 11月も、あっという間に月末を迎えてしまった。月末恒例の「日記界をふりかえって」シリーズの前に、11/13から11/20に連載したWeb日記における新聞記事の引用と著作権の問題の特設ページを作っておきたいと思う。ということで、本日は、日記の方は短めにさせていただく。
 で、この件だが、「スクラップブック」に関しては朝日新聞の担当者からは、「時間をください」という連絡をもらったきり、いっこうに回答が届かない。明日もういちど督促のメイルを送る予定にしている。また、新聞協会からは「連載が完結した時点で、記事をメイルで送ってください(新聞協会からは私の日記の読み込みに莫大な時間がかかるそうだ)」とのリクエストをいただいているので、明日中にはお送りしたいと思っている。たぶん来週早々には何らかの進展があるものと期待している。
 今朝はたまたま6:30まで朝刊の配達がなかった。考えてみれば雨の日も風の日も、朝早く(私の所は通常5:30頃)新聞を配達してくれるのはご苦労なことだ。とはいえ、最新の情報を紙に印刷し、トラックで輸送し、手作業で各戸に配布するというのは、いずれ時代遅れにならざるをえない。

 私が小学生の時に授業で聞いた話なので記憶は定かではないが、かつてラジオが登場した時に、新聞とラジオとどっちが便利かという論争が巻き起こったそうだ。結局、決着はつかなかったが、新聞擁護派は「ラジオでは弁当箱を包めないが、新聞なら包める」という捨てぜりふをのこしたとか。
 ラジオからテレビの時代になっても新聞が生き残っているのは、別に弁当箱を包むためではない。自分が必要とする正確で詳細な情報を、お望みの時間に入手するということは、ラジオやテレビでは決してできない。ところが、インターネットの時代となると、こうしたメリットは通用しなくなる。印刷や配達の人手を必要とせず、お望みの時間に、いくらでも詳しい情報を入手できるインターネット上のオンラインニュースが新聞に取って代わる時代は、いずれやってくるだろう。そういう意味では、新聞業界が危機意識を強め、著作権に躍起になっている事情は同情できる。
 ただ、何度も言うように、新聞記事は公共性という点で小説や詩とは本質的に異なる。無期限に転載を制限していたのでは、一般市民は正確な情報に基づいた議論をすることができない。「発信から一定時間が経過したら転載自由」という新聞社が現れることを強く期待したい。また、今後の動向によっては、無期限に転載を制限するような新聞社の取材には応じないという毅然とした態度をとることも、ネット上での自由で正確な議論を保障するために必要になってくるかもしれない。特設コーナーへの御意見をお待ちしたい。
まごちゃんは、72歳、67g。


971126(水)
[生活]久しぶりの上京で思ったこと(その3)世界でいちばん長いトンネル

 きょうは、このシリーズの最終回。世界でいちばん長いトンネル、つまり東京の地下鉄のことを書こうと思う。
 岡山に帰る時、少々早めに渋谷駅に着いたので、JRに乗らず、渋谷から地下鉄銀座線で京橋まで行った。これまで、渋谷からJR以外で東京駅に行く時には、もっぱら、銀座線で赤坂見附、そこから丸の内線で東京駅というルートをたどっていたが、八重洲のブックセンターに寄ろうと思って地図を見たら、銀座線の京橋駅がすぐ近くであることがわかった。実際、京橋駅からはほんの数分でブックセンター、そこから10分以内で新幹線のホームまでたどり着けた。丸の内線の東京駅から新幹線に乗る時には駅構内の人混みをかき分けていく必要がある。このことを考えると、京橋というのは、地下鉄から新幹線に乗るための最短駅ではないかという気がしてきた。

 地下鉄銀座線の駅で「京橋」、「日本橋」というと、大阪にも同じ駅名があることを思い出す。面白いのはアクセントの違いだ。東京では語尾の方が高くなるが、大阪では「キョウ」あるいは「ホ」のところが高くなる。何か法則性があるのか? 手元に資料がないので分からないが、「琵琶湖」、「生協」などのアクセントを見ても、関西弁では一般に言葉の前のほうを強く言うアクセントが多いような気がする。

 私が子どもの頃は、東京の地下鉄と言えば、銀座線と丸の内線だけだった。中学生の頃、これに日比谷線が加わった。このあとは、もう何だか分からない。昔、いちど、営団線から都営線に乗り換えて改札を出ようとしたところ呼び止められ、乗り継ぎ分の料金を払わされたことがあった。今でも乗り継ぎは割高になっているのだろうか。

 息子が地下鉄の一番前からの景色を見たいというので、2-3両移動して(空いている車内を移動したので、皆からジロジロ見られた。サリン事件のせいだろうか。)、運転席の後ろに立つ。銀座線というと、昔は、次の駅までの距離を示す数字が、たぶん1kmおきに表示されていたと記憶している。今回見た限りでは、そのようなものはなくなっていた。また、銀座線は、架線ではなく線路横のレール状の電力源から電気を補給しているため、以前は、駅構内に入る直前などに室内灯が消えて、補助灯に切り替わることがあった。いまは、室内灯がつきっぱなし。

 23日の朝だったと思うが、NHKの朝のニュースで、「幻の新橋駅」というのを紹介していた。銀座線はもともと、2つの会社に分かれて営業しており、当初はそれぞれ別の新橋駅で終点になる計画があったらしい。それが1本につながり、使われないままに残ったのが「幻の新橋駅」だそうだ。一番前から眺めていたところ、確かに新橋の手前で、別のホームが見えていた。あっこれがそうか、と思ったが、確かな証拠はない。

 西岸良平の漫画に、秘密の地下鉄駅とか、酔っぱらって寝ているうちに地下鉄工事で閉じこめられてしまった話などがあったと思う。久しぶりに東京の地下鉄案内図を眺めてみるが、よくぞこれだけ奇怪な迷路を造ったものだと、呆れ返る。それでいて、どの路線も、そこそこ乗客があって、それなりに運行しているのだからすごい。ただ、皆が最短かつ最小のエネルギーで目的地に到達しているかどうかは疑わしい。これだけ奇怪になると、TVチャンピオンで「地下鉄通」選手権なんていうものがあってもよさそうな気がしてくる。
まごちゃんは71歳、67g。


971125(火)
[生活]久しぶりの上京で思ったこと(その2)京王線

 今回、学会の会場の最寄り駅である京王線の府中駅前には大きなケヤキの並木があった。世田谷の私の実家の周囲にも、子どもの頃には大きなケヤキの木が何本かあったが、みな切り倒されてしまった。府中のケヤキ並木を見て、ふと子どもの頃の町の様子を思い出した。世田谷で晩秋を感じさせたものと言えば、ケヤキと真っ赤に熟れた柿の実ではないかと思う。岡大構内にも大きなケヤキの木が何本かあるが、気のせいだろうか、武蔵野のケヤキに比べると迫力に今ひとつ欠ける。

 会場となった「安田生命アカデミア」は、京王線府中駅から歩いて20分ほどのインテリジェントパーク(?)内にあった。ここには、他に、日債銀、住友銀行、日本銀行などの大きなビルが建ち並ぶ。しかし、何故か金融関連企業ばかり。時期が時期だけに、地下に大ナマズが棲んでいてもおかしくないような奇妙な雰囲気を感じた。

 京王線は子ども時代から最も馴染み深い私鉄の1つ。小5の頃には、新宿から京王八王子までの全部の駅名を暗記したことがあった。今は、新宿駅が2つあったり、橋本方面への支線ができたり、高尾山まで本線が伸びたりして、何が何やらわからなくなった。

 新宿・京王八王子間の駅で、周囲の駅がいちばん変わったのは「聖蹟桜ヶ丘」ではないかと思う(今回は通っていない)。昔はあんな大きな駅ではなかったし、急行も止まらなかったと思う。

 高幡不動から北野まではハイキングコースになっていた。住宅地の造成で、いま同じコースをたどることは不可能かと思う。

 京王線といえば昔は明るい緑色の車両で、急行と各駅停車しかなかった。急行は、高幡不動〜京王八王子間は各駅に止まった。最近は特急、急行、準急などいろいろある。種類がふえた分だけ、世田谷区内の住民にとっては少々不便になった気がする。ちなみに下高井戸には、相変わらず急行が止まらない。近くの通勤・通学者は各駅停車でゆっくり行きなさいという意味なのだろう。

 京王線の駅名には、所在地の地名とずれているものがある。「下高井戸」は実際には世田谷区内の「松原」と「赤堤」の間にある。実際の「杉並区下高井戸」は「桜上水」駅のほうが近い。「芦花公園」は、必ずしも、徳富蘆花ゆかりの「芦花公園」の正面にはない。芦花公園に行くなら、1つ手前の「八幡山」から環八沿いに歩いた方がいくらか近いかもしれない。(東急東横線の「学芸大学」のように、下車していくら歩いても「東京学芸大学」にはたどり着けない駅もあるので、これに比べればマシだろう)。
まごちゃんは70歳。67g。


971124(月)
[生活]久しぶりの上京で思ったこと(その1)新幹線
 11/22から11/24まで、東京の府中市で開かれた日本行動分析学会年次大会に参加した。今回は、連休に重なったため、行き帰りは家族同伴、世田谷の実家に泊まってきた。一方、学会の会場は府中市の「安田生命アカデミア」という所。近くに有名な日記作家がご在住であると記憶していたが、あいにく、8:30から終電ギリギリまでの過密日程のため、ご挨拶できず失礼した。以下、道中で気づいたことをメモ替わりに記す。きょうは、新幹線で思ったこと。

 岡山から東京行きというと、たいがい往復割引(もしくは東京ミニ周遊券)にひかり号の自由席特急券の組み合わせを利用するものだが、今回は連休で混雑が予想され、どうせ指定券をとるならばと、少々贅沢して、往復グリーン車のとくとくきっぷを利用することにした。500系のぞみの登場で、「グランドひかり」がますます衰退していく感じがしたので、このさい2階建てひかりの2階席の利用もよかろうと思った次第だ。しかし、大誤算であったことに、あとで気づいた。この割引券、大人が36900円だったので、どうせ子どもは半額ぐらいだろうと思っていたところ、子ども用のものはなく、またグリーン券は子どもは半額にはならないことが判明した。つまり、子ども一人、グリーン9130×2+運賃9160円、合計27420円と、大人の自由席並みの料金がかかってしまったのである。おかげで、 合計で、12万8640円の大出費。のぞみ利用の往復か、のぞみ回数券バラ売りを買った方がはるかに割安だった。
航空機利用の場合も、子どもが意外に割高だと思うことがある。原因は、複数の割引制度を同時に適用しないため。大人では、早割をうまく活用すると3-4割は安くなったと思うが、子どもは小児運賃割引のほうが割引率が高いため、あまりメリットはない。
 グランドひかりの2階席は、眺めの良さは新幹線随一だと思うが、揺れが大きいせいか、行き帰りとも娘が「車酔い」になってしまった。まだ息子が小さかった頃、2階の食堂車で鰻弁当を食べたあとで息子が吐いてしまって困った記憶があるけれど、これも車酔いのせいだったかと思う。私自身はもともと車酔いや船酔いには強く、特段の変化はなかった。もっとも、以前に、三宮−姫路間の新快速電車で立ちっぱなしで乗車中に気分が悪くなったことがある。我が家では、どこに行くのもほとんど自家用車で移動しており、電車に乗るのは1年に数回程度。電車独特の揺れ方に馴れていないためだろう。

 グリーン車にはカラー液晶ディスプレイがついているが、東京−新大阪間ではビデオ放映していない。JR東日本とJR西日本の営業政策の違いによるものかと思うが、乗客にとっては迷惑な話だ。帰りがけには、「秘密の花園」(元銀行員の女性が富士の青木ヶ原に水没した札束を探す日本映画)とかいうのをやっていたが、結末を観ないうちに岡山に着いてしまった。イヤホーンを無料貸し出ししないというのも、航空機に比べるとサービス悪い。

 以前「たけしの万物創世記」で、「新幹線の窓は、普通の電車より高い位置にあって遠くの景色しか見えないのでスピードが速くでもゆっくり景色を眺められる」というような話をしていた。二階席の場合は、真下の景色まで見えてしまうので、かえって目が疲れる感じがした。

 今回は1カ月前に座席予約していたため、往復とものんびり旅行できたが、車内放送を聞いていると、普通席は相当混雑しており、指定席の通路にも自由席券利用の乗客を立たせていた模様。「のぞみ」には指定席しかないため、急な用事で指定がとれない人は、みな「ひかり」になだれ込むことになる。JR当局は、この混雑をどう考えているのだろうか。

 「のぞみ」(普通席)は、どうみても「ウサギ小屋」団地か養鶏場の思想で作られたもののように見える。大量輸送とスピード最優先という点ではビジネス客には歓迎されるのかもしれないが、私にはどうにも落ち着かない。多少時間がかかってもよいから、もっとゆったりとした車両があってもよいと思う。お年寄り向けの畳型座席、病人向けの寝台型座席、赤ちゃんのためのベビーベッドつき座席なども欲しいところだ。
まごちゃんは、ようやく冬眠解除。69歳で67g。


971120(木)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(8)とりあえずの最終回
 土曜日の朝から出張に行くという事情もあるので、この話題については、きょうでとりあえず最終回としたい。いろいろ出張の準備もあるので、明日の日記が書けるかどうかは未定であるが、いずれにせよ、近日中に、新聞記事引用と著作権問題に関する特設コーナーを作り、関連サイトのリンクと御意見コーナーなどを充実させたいと思っている。

 さて、最終回のきょうは、過去・現在・将来における新聞社の役割を念頭におきながら、新聞記事の引用・転載の問題を総合的に考えてみようと思う。
 まず、今回の日本新聞協会の見解(11/10)の論点を、私なりに整理しておきたい。  これに対して、私は、新聞記事の内容には公共的性格があり、小説や詩歌の引用や転載とは同等に扱えず、ネット上で正確な資料に基づいて自由な議論を保障するためには、引用はもとより転載についても、営業活動の妨害にならない限りは、それを拒否する合理的な理由は見あたらないことを指摘した。
 新聞記事を元にした個々人の議論や論評には緊急性があることも指摘してきた。事前に引用や転載の許可を求めてほしいという主張が正当であったとしても、生鮮食料品的価値を失う以前に、当該の新聞社側が短時間以内に許諾を与える態勢にあるとは、到底思えない。しかも、ホームページ開設者は、この半年あまりのあいだにも加速度的に増加している。
一例をあげれば、私がスクラップブックを登録した97年3月26日の時点で、代表的なWeb日記リンク集である日記猿人の登録番号は566番であった。ほぼ半年後の本日11月20日朝の時点では、最新の番号は1141番と、2倍以上に増加している。
新聞各社が、転載の相談を受ける窓口を拡充しても、要請件数が、毎日何千、何万にのぼるようになれば、処理能力はいずれパンクする。転載申請への回答が遅れることに嫌気をさして、いちいち事前の相談をせずに記事を引用・転載していく「非合法」ページも増加していくかもしれない。それをチェックできる能力が新聞社側にないとすると、律儀に転載申請をした正直者ばかりが転載拒否に合うという不公平を生じる可能性だってある。事前承諾を求めるという今回の「見解」は、将来のインターネット利用の飛躍的な増加を見通していないという点で認識に甘さがあり、「悪法でも法は守らなければならない」という一般論だけで新聞業界の権益を確保しようと目論んでいるように思えてならない。
 
 新聞社は、これまで、世論の形成に大きな役割を果たしてきた。それは、新聞社側が情報を提供し、読者がそれを読む。読者の意見は、新聞社の声欄への投書、あるいは小規模な市民運動が新聞で紹介されるという形で一般大衆に伝えられていく。つまり、双方向の情報伝達とは言っても、その経路は完全に新聞社によって統制されてきたのである。
 こうした時代が長く続いたせいであろうか。どうやら、新聞界には、「素人さんに、正確な情報発信などできっこありません。素人さんの情報発信なんて信用できません。情報発信はプロである私たちにお任せを」というおごりがあるのではないか。あるいは、ネット上での情報発信を新たなビジネスと位置づけ、その独占を目論んでいるのか。そんな疑いさえ感じざるを得ない。

 新聞協会の見解発表から10日あまりが過ぎた。発表から一週間後の17日の時点ですでに、朝日新聞、日経新聞、讀賣新聞が、自社のホームページ内に新聞協会の「見解」を転載し、毎日新聞もリンクの形で「見解」を紹介していることが確認できている。
 私は、新聞協会が何をめざして作られた団体なのかよく知らないが、いずれにせよ、このように各社が一致団結して新聞協会の「見解」を紹介していることには、ある意味では恐ろしさを感じざるを得ない。
 新聞の報道が、一般に公正なものであることは私も認めるところであるが、従来より、新聞社の権益に係わる報道では必ずしも反対意見を公平に紹介しているとは言えないところがある。例えば、新聞代の値上げがそうだ。申し訳程度に「値上げ反対」の声を紹介している場合もあるが、スペース的には反対意見は1〜2割程度、残りの8〜9割は「値上げやむなし」とする識者の声を紹介している場合が殆どではないだろうか。
 もし、新聞社が一致団結して記事の引用や転載に絡む業界の権益を守ろうとすることにでもなると、これは恐ろしい問題である。すでに指摘したように、今回問題にすべき点は、「記事は著作物であるか」という問題と、「それを引用・転載する自由がどこまで認められるか」という議論に分かれる。また、現行あるいは改正施行後の著作権法に照らし合わせた解釈ばかりでなく、今後のネット上の情報伝達のあり方や知識の共有に絡む問題も含まれている。これらについて、もし新聞社各社が、業界にとって都合の良い解釈ばかりを報じ、反対の声の紹介を怠ることがあるならば、大いに問題である。果たして、業界に都合の悪い解釈をどこまで新聞で紹介できるだろうか。今後の推移を見守りたい。
 新聞社各社はそれぞれ独立した報道機関でなければ存立価値はない。新聞協会の見解が協定や裏取引でないとするならば、今回の私の主張に沿って、例えば「販売から6時間を経過した記事は、出典を明記すれば原則転載自由とする」というような新聞社が1社ぐらい現れてもよいように思う。そうなれば、ネットの利用者は皆その新聞を購読し引用・転載するようになり、頑強に引用・転載を拒否する新聞社の販売部数は減少していく...。そうなった時、どこかの業界の談合のように、転載自由を認めようとする新聞社に対して他社や協会は圧力をかけようとするのだろうか、これも注意深く見守っていきたいと思う。
まごちゃんは、68歳、69g。


971119(水)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(7)事前に承諾を求めることについて

 きょうは13:30から始まった会議が20:10までかかった。いちども席を立たずに議事進行をつとめた学部長はすごい。私は3回ほど、トイレに行った。以前に、宮内庁の車馬官が、御料車担当の時にいちばん注意することは何か、という話をされていた。何でも、前の晩から水気のあるものを断つということだそうだ。まさか学部長が、会議の前の日から水を断っているとは思えないが、とにかく感心する(←もうちょっと別のことに感心しろ)。

 さて、きょうは、著作権問題の最終回とする予定であったが、これだけ長時間の会議、いくら論争の好きな私でも、激論をたたかわせてきた直後に最終回のまとめをするというのは、ちょっとツライ。やむをえず、最終回は明日に延ばすこととし、きょうのところは、「事前に承諾を求めること」に限って考えてみることにしたい。
 新聞協会の見解(11/10)は、その最後の部分で、
新聞・通信社が発信する記事、ニュース速報、写真、図版類には著作権があり、無断で使用すれば、著作権侵害になります。..【中途略】....利用者の側が、情報をどのような形で利用しようとしているか、動機も、利用形態もまちまちなため、新聞・通信社としても、個々の事情をうかがわないと利用を承諾していいものかどうか、一般論としてだけでは結論をお伝えすることはむずかしい側面もあります。リンクや引用の場合も含め、インターネットやLANの上での利用を希望されるときは、まず、発信元の新聞・通信社に連絡、ご相談をしていただくよう、お願いします。
と結んでいる。「お願いします」という柔らかい表現にはなっているものの、ここでは、転載はもとより、リンクや引用の場合でも、まず当該の新聞・通信社に事前の承諾を求めることが不可欠であるとの立場にたっているようだ。

 初めに、リンクに事前承諾が必要かどうかという問題に簡単にふれておくが、私は、インターネット上で不特定多数に情報を公開しているWebページで公共的性格が強いものについては、原則としてリンクの事前承諾を求める義務はないという立場にたっている。ただ、個人が開設したホームページなどで、カウンタチェックの必要などからTopページへのリンクを希望されている場合にはそれに従うべきであろうし、恒常的なリンク集に加える場合には、「リンクの連絡は不要です」という断り書きがない限りは、事後でもよいから相手方にその旨を伝えることがエチケットであろうとは思う。このほか、画像リンクについては表示の仕方によっては盗用と区別できないケースも考えられ、一定の制約が必要であるとは思うが、これは別の機会に論じることにしたい。
 次に、「引用」と「転載」であるが、すでに指摘してきたように、その区別は、なかなか難しい。
 たとえば、「引用」の必然性と言っても、被引用者の主張を文脈にそって的確に引用するためには分量は多めにならざるをえない。単純に、分量の上で引用部分より地の文が多いからとか少ないからという基準で区別できるものではない。また、引用にどこまで必然性があるかという議論も、その文章の段落の中での必然性、1つの作品全体の中での必然性、一連のシリーズの中での必然性といったいろいろなレベルがあり、いちがいには論じられない。Webページ上での引用の場合も、その一画面の中での必然性から、文書内リンクにおける必然性、同一ホームページ全体の中での文書間リンクにおける必然性といったレベルの問題がある。
 もちろん何の脈絡もなしに他人の文章を相当範囲にわたって掲載したものが引用であるわけはない。明らかな引用、明らかな転載というものがあることは確かである。問題は、その境界領域での見極めであり、その場合、被引用者と引用者のいずれか一方の判断だけに委ねられるものではなかろうと思う。

 引用や転載をする場合は、礼儀としてのレベルから法的な義務のレベルに至るまで、原則として相手方に承諾を求めることは必要であろうとは思う。ただ、引用的性格が強い場合(上述の議論から、100%明確な「引用」はありえないということで、こういう表現を用いた)、相手の承諾を待ってから執筆を開始したのでは、発表時機を失するということもありうる。このあたりは、被引用者に損害を与えたり名誉を傷つけたりしないことを前提に執筆者の良識に委ね、悪質なケースについてだけ告発をしていくほかはないのではないかと思う。
ある新聞社のHPの記事の中に、「無断引用禁止」という表現(たとえばここ)を見かけたが、「無断転載禁止」ならともかく、不特定多数に公開されている情報について、引用まで禁止するのは不適切であると思う。新聞記事、出版物はもとより、Web日記に至るまで、不特定多数に公開された文章は、「公正な慣行に合致し、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内」において、常に、引用され批評される責務を負うし、それを拒むことはできないと思う。

 明確な転載の場合は、著作権者に事前の承諾を求めるのは当然のことである。問題は、相手方が拒否した場合であろう。
 小説や詩など芸術的性格が強いものについては、金銭上の損害が全くない場合でも、著作権者は、その場の気分で転載を拒否できるものと考える。
 いっぽう、ある著作物の内容に誤った情報が含まれていて、テレビや新聞を通じて一般社会に大きな影響を与えたような場合、その誤りを具体的に指摘する目的をもった人が元記事を引用する場合は、実質的に転載に相当するほどの引用があっても、著作権者はそれを拒否できないのではないかと思う。例えば、私は、特設コーナにおいて、テレビ番組(「検証! 血液型性格のウソ・ホント」関西テレビ系の『発掘!あるある大事典』6月15日21:00-21:54 )の放映内容をかなり細かく引用した。このurlについては、番組HPに記載されたメイルアドレス宛にはすでに掲載した旨の連絡をしてあるが、未だに抗議も承諾ももらっていない。しかし、仮に削除要求が届いたとしても、私はそう簡単には引き下がらない決意である。なぜなら、あのテレビ局の放映内容は、娯楽性が強いとは言え、「血液型と性格」について科学的根拠のない俗説を一方的に流布している。その不適切性については、私以外の心理学者からも批判の声が上がっている。こういう時に、まず番組でどういう内容が流布されたのかを正確に把握し、そのうえで具体的に反論をしていくことは、当然の行為であると考えるからだ。
 新聞記事の場合も、その報道内容に明確な誤りがあった場合には、その詳細を引用され批判を受ける責務があるだろう。この場合、証拠保全の目的から、該当記事をスキャナで取り込み、議論の過程で公開するということもありうる。こういう場合、形式的には転載にあたっても、新聞記事が社会的に与える影響の大きさを考えれば、転載拒否はできないのではないだろうか。

 このほか、新聞各社の報道姿勢の違いを批評するために、一面の見出しのサイズを比較するという場合もあるだろう。一例をあげれば、8月10日の「じぶん更新日記」で指摘したように、自民党憲法調査会が5日に発表した「憲法アンケート」の結果は、讀賣や産経と、朝日や毎日では、その報道の仕方がまるっきり違っていた。これを視覚的に鮮明にするには、各社の記事をスキャナで取り込み、画像として面積を比較するということもありうる。記事の文章が細かく読みとれるような提示の仕方は著作権侵害にあたるが、見出しのサイズやレイアウトだけを知らせる程度の縮小画面であれば、決して著作権侵害には当たらないし、転載拒否もできないのではないかと思う。

 うーむ、長時間の会議のあとではこれが限界だ。中途半端だが、きょうはこれだけにしておく。書き切れなかったことのアウトラインは以下のとおり。
まごちゃんは67歳、69g。


971118(火)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(6)ネット界で正確な情報を交換するために
 インターネット上での個人ページが自由に開設されるようになって、いちばん大きく変わったのは、個々人が旧来のマスコミの力に頼らずに、全世界に情報を発信できるようになったことであろう。これまでは、自分の意見を発表する手段が限られていた。新聞の投書欄に投稿しても、編集者の目にとまらなければ掲載してもらえない。渋谷の駅前でのぼりを立てて演説をするという手もあるが、警察に捕まることはないとしても、変人扱いされるのがおちであろう。
 これに対してホームページを開設すれば、一個人も、同じブラウザの画面では、大新聞と平等な地位に立てる。魅力あふれるページを作りそれなりの宣伝さえするならば、小説家、詩人、写真家、評論家など、お望みの名声を得ることができるのである。
 さて、誰もが自由に情報を発信できようになった点は望ましいが、問題は、その信頼性にある。朝日新聞(アサヒコム/ここではミラーへリンク)特集記事「マルチメディア」の中の「情報が凶器に変わる日」の連載記事を拝見すると、種々のデマメイルの話、また、例の神戸の事件で、インターネットの掲示板に少年の実名を特定しようとする書き込みが流れ、全く関係のない近所の家までが嫌がらせ電話に悩まされたということが記されている。私自身もじっさい、この数ヶ月のあいだに、デマウィルス情報、ネズミ講メイル、また、東海地方の某大学教官の死亡デマ情報などを経験してきたた。また同じ特集記事からの孫引きになるが、リクルートリサーチが7月に実施した、インターネット利用者約1200人への調査では、インターネットについて「情報に信頼性がある」と答えた人は20%であったということだ。
 たしかに、匿名の電子メイルや、匿名で書込ができる一部の掲示板・伝言板ならそういう危険性も出てくるが、であればこそ、ネットを正確な情報伝達手段とするために、どういう条件を整える必要があるかを考えなければならないのである。
 さて、ネット上で何が信頼できるかと言えば、まずは、関係者本人の直接の言葉であろう。しかし、すべての人が自分の発信源をもっているわけではない。かといって、世界中を歩き回って情報を集めることもできない。そこで役に立つのが、新聞社や放送局の情報である。
念のため言っておくが、新聞やテレビの報道が絶対正しいと言っているわけでは決してない。松本サリン事件や、神戸の小学生連続殺傷事件の容疑者逮捕前の報道に、種々の先入観や誤りがあったことは報道機関各社が認めているとおりである。

 ところがもし、無断転載はもとより引用まで禁止ということになると、ネット利用者は、直接新聞社等のHPを見に行かなくてはいけない。もちろん、それが瞬時にしてアクセスできるなら転載は不要であろう。もともと、引用とか転載というのは、印刷文書で情報が交換されていたときのやむを得ない措置だったはずである。インターネット時代のこれからは、もしリンクだけで瞬時に希望の記事にアクセスできるのなら、わざわざ本文中に他者の著作物を転載する必要などない。
 しかし現実には、新聞社が提供するホームページは、時間帯によって混雑のためにアクセスできないこともあるし、かならずしも新聞記事の全部を載せているわけではない。全記事のデータベースは大概有料であり、会員でなければ閲覧することができない。一例をあげれば、読売新聞の場合、入会金2,0000円と月額基本料金1,400円で「ヨミネット」に入会する必要がある。いや、この程度の会費ならそれほど高いとは思わないが、いちばんの問題は、会員にならなければ、ネット上で新聞記事を資料とした意見交換ができないということだ。僅少であっても情報提供が会員に限定されているということは、「誰でも自由に参加できる」というネット上での議論に根底から制約を課すことになるからである。

 新聞記事の引用や転載が禁じられた場合の弊害を考える事例として、「アルミ製の食器を使用することの危険性」の問題を考えてみよう。これは、私のスクラップブックでは、6/23、6/30、7/7、7/21づけで朝日新聞の現代養生訓という連載記事に言及しているが、これらの記事が引用あるいは転載できないとするとどういうことになるだろう。著作権に抵触しない書き方は以下のようなものになるだろう。  表現例1や2では、すぐにアルミ食器をステンレス製に換えなければならないのか、当面は交換するほどのことはないのか、確かな情報はどこにもない。表現例3のように、“過去の「現代養生訓」をぜひお読みください”とか言われても、図書館に出向いて縮刷版やCD-ROM版の記事データベースを参照するか、古紙回収業者のところで古新聞の束から該当記事を探し出すしかない。これではネット上で、客観的資料の基づいてアルミ食器の問題を議論することはできない。記憶や伝聞に頼った、ソース不明の情報には尾ひれがつきやすい。結果的に、アルミ食器業者やアルミホイル業者に不当な打撃を与える危険性すらある。
 じつは、アルミ問題に関して、資料集が見出し集に変身させられたという「事件」が、実際に起こっているのである。この方の「アルミの恐怖」についての資料集は、確かに新聞記事の転載に相当していた。しかし、これに代わる無料の記事データベースは当該新聞社によっては提供されていない。緊急避難的措置として設けられたこの資料集を、このような見出し集に変身させてしまうことが、ネット上での「アルミ問題」についての正確な情報伝達にとってプラスになるとはどうみても考えられない。この方の提示版には、「書き込み自粛宣言」前に何度か出入りさせてもらったという気軽さがあったので、直接お尋ねしてみたところ、この「見出し集」への「変身」は、先の見解を受けて御自身が新聞社への問い合わせた結果の措置だそうだ。つまり、文言の丁寧さは別として、結論的には転載を断られたということである。
 上記の資料集は、開設者が、アルミの恐怖をホームページ読者に広く知らせる必要を切実に意識し、その目的のもとで正確さを重んじる観点から、必要最低限の新聞記事を引用したものと考えることもできる。しかし、これに関して新聞協会(11/10)は、「引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」という著作権法第32条をひいたうえで、
対象となった著作物を引用する必然性があり、引用の範囲にも合理性や必然性があることが必要で、必要最低限の範囲を超えて引用することは認められません。また、通常は質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」という主従の関係にあるという条件を満たしていなければいけないとされています。つまり、まず自らの創作性をもった著作物があることが前提条件であり、そこに補強材料として原典を引用してきている、という質的な問題の主従関係と、分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係にないといけません。
という見解を表明している。これを厳密に解釈すると、「自らの創作性をもった著作物」が転載資料に先立って存在しなければならないということになる。これでは、ホームページ上で、まず新聞記事などから必要な資料を収集したうえで、Eメイルや併設の電子掲示板など多くの人の意見を求め、あとから自分の最終的な結論を表明するという形式の企画は不可能になってしまう。上記の開設者がそこまで意図されていたかどうかは定かではないが、私自身、「資料先提示・御意見募集」型の企画を検討しており、特に神戸の事件については、「容疑者逮捕前に、心理学者や精神医学者、カウンセラーなどがどのような犯人像を推測していたのか」について、記事転載に基づく資料提示をしようと考えている。これを開設する場合には、もちろん当該新聞社あてに連絡をとる予定であるが、もし、相手方が転載拒否の姿勢を示した場合は、そう簡単には引き下がらない決意であることをここに表明しておく。
 いずれにせよ、不確かな伝聞情報や意図的なデマが広まりやすいネット界で、新聞社が記事の転載を禁じるということは、ネット上でのデマ情報拡散を手助けをすることにさえならないだろうか。それほどまでして、新聞社は、自社の記事の著作権に固執したいのか。いや、出典を明記することでオリジナリティは守られているから、こう言うべきだろう。そんなにまでして、自社の記事が転載されるのを禁じる理由はどこにあるのか? 関係機関のご意見をうかがいたいものだ。
まごちゃんは66歳、69g。


971117(月)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(5)事実の伝達と著作物「花子さんは6歳年下の太郎氏と、1997年11月17日に結婚した。」は事実の伝達だろうか。

 この連載も5回目となった。途中から来られた人のために、これまでの主張の概要を示すと次のようになる。  この連載の発端となったスクラップブックについては、すでに当該新聞社にその存在と掲載内容が伝えられており、このことは本日午後、公式に確認された。今後は当事者間の問題として協議することになると考えるが、もともとこの連載自体は、「スクラップブック」更新活動の弁護のために行っているのではない。「スクラップブック」とは切り離して、あと数回の予定で、一般論をひきつづき展開していきたいと考えている。例えば、「スクラップブック」には報道写真を転載したことは一度もないし、今後もその予定は一切ないが、ここで述べる意見のなかでは、この問題も合わせて考えていきたいと思っている。

 さて、きょうの話題は、「事実の伝達」とは何かという問題。著作権法第10条第2項は、「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」には著作権はないとしている。これに対して、日本新聞協会の「見解」(11/10)は、
死亡記事であっても、故人がどんな人で、どのような業績があったのかに触れたり故人を追悼する気持ちを出そうとしたものや、交通事故でも事故の背景や周辺の様子などを記述していれば、単な事実の伝達を超え、記者ごとの特徴を反映した記事になります。著作権法では、著作物とは「思想又は感情を創作的に表現したもの」と定義(第2条の1号)しており、記者によって表現に差が出るような記事は、著作物の条件に当てはまると言えます。
としている。これは拡大解釈すれば、記者によって書かれた記事は、どんなものでも著作物になりうる可能性が出てくる。
 例えば、
花子さんは6歳年下の太郎氏と、1997年11月17日に結婚した。
という記述を考えてみよう。これはどのようにみても事実の記述にすぎないように見える。しかし、こんな可能性はないだろうか。 もし、新聞社10社中9社が「太郎氏は平成9年11月17日に結婚した」と報じているなかで、1社の記者だけが上記のような表現をとったとしたら、この記述は「記者の思想又は感情を反映し、記者によって表現に差が出るような記事」(=著作物)と言えないこともない。
 この例に限らず、現実の複雑な現象を言語的に表現するにあたって、思想又は感情が全く入らない記述表現が可能であるか、はなはだ疑わしいのではないかと思う。

 上記のように理屈をこね回せば、何でも主観表現になりかねないが、我々は別に、新聞記者の華麗な創作表現に感動するために報道記事を読んでいるわけではない。多くの新聞読者が求めているのは、できる限り記者の主観の入らない事実の報道である。じっさい新聞社もそれに答えるべく、極力、報道と論説を区別した紙面作りに心がけているはずである。いっぽうでは「公正な報道」といっておきながら、著作権の話題になると「公正な報道記事」にも記者の思想又は感情が入っていると主張するのは、ちと矛盾しすぎるのではないだろうか。

 いずれにせよ、「どれが著作物で、どれは著作物に当たらないのか」などという議論は、あまり意味をなさない。議論が著作物かどうかに終始すれば、行き着くところは「何であれ著作物の転載には許可が必要だ」という一般論で終わってしまうことになる。報道記事は著作物に当たらないと主張する人もいるが、これは結局水掛け論になる恐れがある。新聞記事に著作物の性格があるかないかという議論ではなく、引用や転載をどこまでフリーにできるかという議論に話題を転じるべきである。
 今後の執筆予定は次の通り。順序はこの通りとは限らない。「スクラップブック」関連の個別協議で重大な問題が生じればそれを取り上げることもある。 これらひととおり、意見を述べた時点で、このホームページ内に特設コーナーを設け、関連サイトのリンク、ご関心をお持ちの方のご意見掲載、心理学関係者のMLへの呼びかけなどを行っていきたいと考えているので、ぜひご協力をお願いしたい。
まごちゃんは65歳。69g。岡大教授なら停年退官になる年だ。


971116(日)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(4)なぜ、引用や転載に条件をつけたがるのだろう
 今回の、日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権について」と題した見解(11/10、以下「見解」と略す)は、「新聞記事は、ほとんどの場合が著作物にあたる」と指摘し、引用に厳しい条件をつけた上で、「著作物というものは一般的に著作者の許可なしに要約したり転載したりできないものである」という、法的にも社会的に合意された根拠に訴えて、記事の転載はもとより引用やリンクまで、発信元の新聞・通信社に連絡や相談を求める内容となっている。
 著作物というと、小説や美術作品、音楽、コンピュータプログラムなどがすべてが含まれるため、「Aは著作物だ。何であれ著作物の転載には許可が必要だ。よって、Aの転載には許可が必要だ」という形の論法はいっけん説得力をもつものと言えよう。しかし、これまで指摘してきたように、新聞記事の大部分は、報道機関という特権を活かして収集された情報を含むものであり、小説や音楽と同類には扱えない公共性をもっている。新聞の販売部数に影響を与えるというならともかく、なぜ新聞協会は、一般論として、営利を目的としないホームページにおける引用や転載にまで厳しい条件をつけようとするのであろうか。この点について、「見解」は、何ら説得力のある理由を示していないように思う。

 ここで少し脱線するが、学術論文の場合を考えてみたいと思う。たしかに一部の研究者の中には自分の論文が複写されたり再配布されることをひどく嫌う人もいる。学会の財政を守るという観点から学会発行誌の複写に厳しい制限を加えようとする人もいる。しかし、著作で生計を立てている人ならともかく、大学教官のようにちゃんと給料をもらって研究を続けている人の場合には、論文が無断で複写されようと、かなりの部分が資料集などに転載されていようと、結果的に自分の論文が少しでも多くの人々に読まれることになるなら、著作権侵害といって怒り出す人は、あまりいないのではないかと思う。
 論文を引用する場合でも同様だ。重要な点はあくまで、引用の範囲と原著者名を明記することである。これによって原著者のオリジナリティは完全に守られる。その引用を元に新たな研究が進展すれば何よりの喜びであろうし、仮に反論を目的とした引用であっても、とにかく学界で自分の主張が注目されることはうれしいものだ。いちばん空しいのは、誰からも引用されず、注目されず、埋もれていくことである。
 論文の引用範囲は、引用に必然性がありかつ必要最低限の範囲でなければならない、と言われるが、この判断も難しい。ある人の主張を最低限に引用するということは、極端に言えば、結論の一文を引用するということだけだ。しかし、その主張がどんな文脈でなされたのかを紹介しなければ、第三者にかえって誤解を与えてしまう。一例をあげれば、私は福祉問題では、「大きな政府論」より「小さな政府論」を支持しているが、これはあくまで行動分析学の視点に立って個々人の自助努力を強化するような社会システムが必要であるとの文脈に沿って主張しているのである。この文脈を無視して、「長谷川は『大きな政府論より小さな政府論を支持している』と述べている」とだけ引用されのでは、非常に大きな誤解を受ける恐れがある。主張内容が誤解されないように配慮してもらうという観点からは、「必要最低限」というよりも「紙面の許す範囲で、誤解を与えないのに十分な最大限の量」を引用してもらったほうが遙かにありがたい。

 新聞の発行と同時に誰かがその記事を丸ごと転載しホームページで発信することになれば、確かに営業妨害に当たるだろう。しかし、例えば資料集という形で後日、関連記事を収集するような場合、なにゆえに発信元の新聞・通信社に連絡や相談を求める必要があるのだろうか。盗作や剽窃は絶対に許せないが、出典を明記したものを資料集として公開することは、新聞社にどういう損害を与えるというのだろうか。相談を義務づけるということは、自動的には承諾しないという意味であろう。となると、どんな場合にどういう理由で承諾を拒否するのか。この点で、ぜひ関連機関のご意見をうかがいたいものだと思う。

 なお、これまで、私のスクラップブックは、新聞が配達された日の朝に執筆を開始し、8:00前後にサーバにアップしていた。私はもともと、スクラップブックの連載が、当該新聞社の販売部数を減らして損害を与えているとは思っていないし、むしろ、引用をすることで、元記事を見るために新たに新聞を買いに行く人がいるのではないかとさえ思っているが、この時刻は、駅などで朝刊を販売している時間帯であることも確かである。それゆえ、このアップ時刻だけを根拠に、営業妨害にあたると指摘された場合、形式上はその可能性を否定できない弱みがある。そこで、今後は、アップの時刻を昼休みに延期することに決め、明日以降に実行する予定である(11/17は新聞休刊日のため)。但し、昼休みは曜日によって必ずしも暇とは言えないので、さらに延期して夕刻にすることも検討している。これは、私の自主的な判断によるもので、決して、どこからか圧力がかかったものではないことをここに明言しておく。
まごちゃんは64歳。69g。


971115(土)[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(3)リンゴはなぜ著作物でないか?
土曜日は、ネットがすいていたので、gooを使って、「新聞記事」と「著作権」をキーワードに関連発言がありそうなHPをいくつか覗いてみた。本日の時点で、この2語の両方を含むページはは561件あった。なかには、総会屋のページのようなものもあったし、岩崎良美のファンクラブのようもあって、該当ページを見つけ出すには苦労した。日記猿人から外に出ると、新聞記事の引用や転載をしているHPが予想外に多いことがわかった。新聞協会が今回の見解は、一部に「スクラップブック」を意識したものであるとの示唆があったが、こうして見ていくと、どうみても深読みしすぎではないだろうか。
 さて、きょうは、著作物はなぜ保護されなければならないのか、どの範囲までどういう形でで保護されなければならないのか、ということについて考えてみたい。
 著作権問題では、「現行法」に照らし合わせて違反かどうか、法令解釈をどう読みとるかといった話題に集中しやすいが、現行法は必ずしも完璧とは言えない。時代の流れの中で現実にそぐわない部分があれば、その網をかいくぐって反社会的行為をする人が出てくる。いかなる反社会的行為があっても、法律に違反していなければ裁判所は有罪判決を出せないし、民事面での賠償を認めることもできない。そのいっぽう、時代の流れのなかで、形式的には法令に違反するが現実には社会的にすでに許容されている行為というものもある。さらにヌード写真の猥褻基準のように、法令は同じ文言であっても、時代の流れのなかで取締の基準が変わっていったものもある。このあたりで、いったん、「現行法がこうだから」とか「見解がどうだから」といった議論から離れて、根本的なところから考え直してみる必要もあるのではないかと思う。

 ここに色つやのよい赤くて大きなリンゴが1つあるとする。これは、リンゴ生産農家が、丹精こめて作り上げたものだ。しかし、これは著作物ではない。それを生のまま食べようと、ジュースにしようと、アップルパイにしようと、あるいは別の人に売ろうと、消費者が著作権侵害で訴えられることは決してない。リンゴも論文も新聞記事もみな同じように、個々人や団体が努力して作り上げたものであるのに、なぜリンゴには著作権がないのだろうか。
 いちばん考えられる理由は、おそらくこうだ。リンゴは決してコピーできない。つまり、楽をして、複製物で大儲けすることはできない。したがってリンゴが売れた時点で、それまでの努力は正当に評価されるのである。
 同じリンゴでも、その種を蒔いてリンゴの木を増やすとなるとちょっと話が違ってくる。もし、そのリンゴが特別の品種であったとすると、品種改良者の多大な努力がそこで報われなくなる。
 あるいはこういうことも言える。特定産地のブランド品と偽って安物のリンゴを売れば、本物の産地の人々の努力に打撃を与えることになる。
 この例からわかるように、著作物保護の根底には、「公共の利益」とともに「個々人(もしくは団体)の努力」を正当に評価・保護することが、人類全体の発展にとってプラスになる、という考え方があるのではないかと思う。
 つまり、新しい物を創作したり、新しいことを発見したりするには相応の努力が必要である。苦労して作った創作物を、他の人が何の手間ひまかけずに複製して大儲けできるような社会であったら、地道に努力することなどアホらしくなってしまう。これは文書の著作権ばかりでなく、特許、品種登録、商標、意匠などにも共通して言えることである。

 しかし、その一方で、創作者や発見者の功績をいつまでも独占させてしまうと、後発者の努力に制限を課すことになり、結果的に、いつまでたっても人類の共通資産としての活用がむずかしくなる。たとえば、ある医者が難病の治療法を開発したとする。その治療法の実施を開発者に独占させてしまったら、せっかく治るはずの患者を見殺しにすることになりかねない。そこで、個々人(もしくは団体)の努力を正当に評価することと、その成果を人類の共通資産としての活用することの両方の意義を見据えた法対策が必要になってくるのであろう。

 前にも指摘したが、著作物の保護は、オリジナリティの保護(詳しい法律用語は知らないが、たぶん、著作者人格権あるいは同一性保持権と言われているものだろう)と、引用、転載など再配布の権利に関するものに分けて考える必要がある。
 オリジナリティの保護とは、その著作物の内容が歪められたり、盗作や剽窃を防ぐためのルールである。法律はどうあれ、このオリジナリティは人類が存続する限り永久に保護されるべき権利であると考える。ただし、パロディをどこまで認めるかといった議論は別にある。
 いっぽう、再配布にかかわる権利は、永続的に認めると人類共通の資産としての活用を著しく損ねることになりかねない。著作物の公共的性質、あるいは著作者がそれを配布することによって得られる利益にどの程度依存した生活をしているか、などを考慮して期間を区切って認めるべき権利であろうと考える。

 新聞記事において、単純な事実描写以外のすべての記事にオリジナリティがあることは、当然であろうと私は考える。問題は、その再配布の許容の範囲である。きょうは時間がないので、問題提示にとどめるが、新聞記事の活用を考える際には、新聞社が、国民の知る権利を守るために特権を与えられていることにも目を向ける必要がある。例えば一般の国民が裁判の傍聴をする時には、抽選で傍聴券を手に入れなければならない。議会の傍聴も、数が限られている。しかるに新聞社は、報道機関であるという理由で、別枠で傍聴する権利が認められているのである。政府機関や学者に対するインタビューも同様である。一般市民が個別に首相にインタビューを申し入れても受け付けてもらえない。新聞社の取材に快く応じるのは(取材拒否の例外もあるけれど)、取材の結果が広く公表され、国民全般の知る権利を満たす役割を果たしていると信じるからにほかならない。
 そうしたいわば特権を活かして入手された情報が、著作物であるという理由だけで、新聞社に独占的に配布権が認められ、「いちいち新聞社に事前のお伺いをたてなければ、個人には、インターネット上で配布する権利が一切認められない」というようなことにでもなれば、これは、大問題である。
 もうひとつ問題提起をしておけば、いったん販売された新聞記事をもとに、読者がその必要に応じてオリジナルの資料集を作成し、出典を明記したうえでインターネット上でデータベースとして公表する活動は、新聞社の許諾なしにはできないのかという問題がある。新聞社の中には独自に記事をデータベース化しCD-ROMやオンラインで有料で提供しているところがあるので、この面での営業妨害には当たるかも知れないが、これは、元来の新聞社の営業活動ではない。著作権上の営業妨害は、あくまで、新聞の販売部数の影響を与えるかどうかによって判断されるべきではないだろうか。このあたりも次回以降に考えていきたいと思う。
まごちゃんは63歳。70g。京大教授なら停年退官になる年だ。


971114(木)
[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(2)
 きょうは、長時間の会議の影響などのため、この日記を書く時間が殆どなくなってしまった。そこで短めに、昨日から開始したシリーズの続きとして、日本新聞協会の「ネットワーク上の著作権について」と題した見解(11/10)についての私個人の受け止め方と、今後の対応方針を述べたいと思う。
 まず、あの「見解」だが、私はあの内容は、新聞社が著作権を主張する際の最大限の範囲を明示したものであると受け止めている。(以下、冗長さを避けるため、区別の必要がない限り単に「見解」と呼ぶことにする)。
 「最大限の範囲」というのは、「そこで主張されていない形で引用を行っても、著作権侵害で抗議や訴訟に進展することは決してありません」という意味である。「見解」から引用すれば、“「だれが、いつ、どこで、どんな死因で、死去した。何歳だった」というだけの死亡記事や、「いつ、どこで、だれの車が、だれそれの車と衝突し、だれそれは重傷」といった簡単な交通事故の記事”を伝える限りにおいては、営利目的その他どういう媒体で伝えようとも、新聞社が著作権侵害で誰かを訴えることは決してないという意味である。
 いっぽう、「最大限の範囲」ということは、そこに指摘された内容を一般論として一律に適用し、例外なく「著作権侵害」で訴えるということではないと考える。もし一律適用であるとすると、昨日も指摘したように、われわれが、緊急の時事問題に対して自由に意見を述べることを難しくする恐れさえあり、ネット上での情報伝達が一部報道機関だけに独占されたり、一般市民の言論・発表の自由に著しく制限される危険が出てくる。新聞協会がそのようなことで自ら首を絞めるような行動をとることは決してないと信じている。
 「一般論として一律適用するものではないが、最大限の範囲で権利を主張しておく」ということは、不測の事態に備えるために必要な処置であろう。例えば、「記事の要約紹介なら侵害に与えない」ということを一般論として認めてしまったとする。「日記猿人界」をみても分かるように、ネット界には常識では考えられないようなとんでもないことをする人がいる。そこで、例えば、その日の朝刊一面をOCRですべて読みとり、ワープロの要約機能を使って30%に要約し、ネット上で流す人が現れてくるかもしれない。いかに営利目的であっても、あるいは新聞社に対する露骨な嫌がらせであったとしても、いったん「記事の要約紹介なら侵害に与えない」という一般論を認めてしまえば、抗議や訴訟を起こすことができなくなってしまう。そこで、やはり、最大限の権利の範囲として、「記事の要約紹介でも権利侵害にあたる」と主張しておく必要があるのは納得がいく。ただ、権利を行使するかどうかは、あくまで利用者の動機や利用形態を見極めた上で、個別に判断していくということになるということだ。
 では、新聞社から抗議を受けないなら何をしてもよいのか。これはもちろん否である。上記の「権利主張の最大限」の範囲に抵触する可能性がある形で、記事の引用や要約紹介を敢行する場合には、公共の利益、知る権利の保護、学問教養知識の普及に一致するものでなければならないだろうし、報道機関の信頼を損ねたり、営業活動の妨害にあたるような行為は厳に慎まなければならないと思っている。

 うーむ、時間がないのに、またまた長くなってきた。手身近に今後の対応方針を述べたいと思うが、これには「本音」と「建前」がある。
 「本音」としては、もともと「スクラップブック」は自分自身が論評活動を行う上で引用する必要があると考える記事を、データベース化する目的で始めたものであったから、これを公開することのメリットは私自身には何もない。ちょっとでも面倒なことがおこるなら、さっさと個人のハードディスク上のファイルとしてだけ保管したほうがベターだという考えは、前々から持っていた。それと、現実問題として、これを毎日更新することには少々負担を感じている。いちばんの問題は、朝の「英会話入門」を真剣に聴けなくなったということだ。
 ただ、建前論として、いまここで、公開や更新を中止してしまうと、悪い前例を作ってしまう恐れがある。今回の「見解」の内容は十分理解できるものであるし、私もこれに沿って、できる限り「見解」に抵触しないように更新を続ける方針であるが、100%の遵守すると、「作品自体の存在を知らせる目的の数行程度の要約」以外には新聞記事の要約紹介はできなくなってしまうが、これでは、社会現象を題材にした論評活動などは到底できなくない。このあたり、私が「スクラップブック」活動を続けることには、より具体的なガイドライン設定を検討する際の1つの資料としての存在価値が出てくるかもしれない。
 「見解」に書かれてある「自由で民主的な社会を維持し、発展させていくためには、新聞が社会生活の様々な場所にある多様な情報や意見を幅広く収集し、世の中に伝達していくことが必要です。」という主張は納得できるものであるし、その一方で、「社会生活の様々な場所にある多様な情報」について、ネット上で、一般市民が種々の資料を提供し合って幅広く意見を述べ合うこと自体は、新聞社やテレビ局も否定できないはずである。双方向型の新しい形態の情報伝達社会にどう対応していけばよいのか、いましばらく「スクラップブック」を続けながら、この問題を具体的に考えていきたいと思っている。
まごちゃんは、冬眠解除の暇なく、昨日のまま。


971113(木)
[一般]Web日記における新聞記事の引用と著作権の問題(1)
 本日(11/13)のお気軽日記(11/12)や、よろずや談義に紹介されているように、 日本新聞協会は11月10日、「ネットワーク上の著作権について」と題した見解を表明した。この見解では という基本方針が示されており、またその一方で、引用・転載の仕方についての考えは新聞社によってまちまちであることや、利用者の動機や利用形態にも依存することから一般論としての結論は出しにくく、個別に発信元の新聞・通信社に連絡、ご相談をしてほしいとの要望がつけられている。
 この見解は、古川さんによれば、「タイミングよく」出されたと言えるが、よろずやさんの11/13の日記によれば、
「某新聞社の法務に尋ねていた正式な回答が11/10の新聞協会の発表とのメールが某社より.明らかに「スクラップブック」を意識した発表である.
と記されており、何と、私が本年1月以来公開している「スクラップブック」が、この声明の発端であった可能性まで示唆されている。日記猿人投票ではせいぜい5票どまりの「日記」がここまで騒がれるとは思わなかったが、よく考えてみれば、毎日毎日、ああいう形で新聞記事の引用を続けている「日記」は、あんまり他には見かけない。日記猿人には、いくつかニュース読み日記系のものが登録されているが、自慢ではないが原則毎日更新と継続性の点から言って、「スクラップブック」が主たる検討対象になったとしても、そう不思議ではないのかもしれない。

 じつは、今回の声明については、私は別ルートで、当日のうちに内容を把握していた。そこで、この発表に記されている「発信元の新聞・通信社に連絡、ご相談をしてほしい」との要望を受けて、発表の翌日、私が主として引用している朝日新聞社あてに、さっそく確認のメイルを送った。もともと、この種の問題には、後述するように一般論はあり得ず、かりに何らかのトラブルが生じたとしても、最終的には著作権者である当該新聞社と利用者である私との協議のなかで解決していく問題であるため、今後の協議の過程ではオフレコにせざるをえない部分も出てくるとは思う。ただ、インターネット上での著作権問題、情報公開の範囲や伝達の問題などが活発に議論されているおりでもあることから、この日記の新しいシリーズ・テーマとして、できる限りその内容を公表し、今後の同種の議論の資料として活用させていただきたいと思っている。
 また、スクラップブックのような取り組みは、日々試行錯誤を重ねながら現在に至ったもので、さらに改良の余地を模索している。数日以内にこの問題についての特設コーナーを設置し、さまざまなご意見を頂戴しようと考えているので、その点でもぜひご協力をお願いしたい。
じつは、来週行われる「行動分析学会」で、私は、自分自身の日記執筆行動を分析した「Web日記の行動分析」という発表を予定しており、その関連のシリーズも日記ネタとして予定している。といっても、上に述べた著作権問題のテーマと同時に取り上げるほどの余裕はない。どちらのテーマも、細切れもしくは隔日連載形式にならざるをえないことを、あらかじめご了承いただきたい。

 さて、きょうは第一回目なので、基本的な点をいくつか指摘しておきたいと思う。

 まず第一に、著作権問題というと、盗作や無断翻案ないし剽窃といった倫理的な問題がすぐ頭に浮かぶ方がおられると思うが、倫理的な問題と、引用や転載に絡む民事上の著作権問題とは明確に異なるということを指摘しておきたいと思う。
 たとえばある詩人が、インカ帝国の遺跡の中から偶然に詩集を発見し、その一部を翻訳して自分自身のオリジナルの作品として発表したとする。この場合、元の詩を作った人は氏名不詳であり、本人も親族も現存していないことから、原作者によって著作権侵害で訴えられる可能性はゼロに等しい。しかし、それは倫理的には許されない行為であり、何かのきっかけで事実が明るみに出れば、その詩人の芸術家としての評価は地に墜ちる。同じ事は、学者でも言える。他の学者が書いた論文を、明確な引用をせずに自分の独自の見解であるかのように主張すれば、盗作や剽窃として訴えられる。仮に民事上は解決したとしても、その1回の事件だけで、学者生命は絶たれることになるだろう。
 これに対して、引用や転載に絡む民事上の著作権問題は、盗作や剽窃とは全く別の問題である。引用元が明記されていて、自分の意見と元の記事が明確に区別されている限りは、盗作とは言えない。では何が問題かということになるが、おおむね3つほど理由が考えられると思う。  しかしその一方で、単純な事実伝達以外の情報は何から何まで事前の検閲・許可が必要だということになってくると、我々は緊急の時事問題に対して自由に意見を述べることが難しくなってくる。新聞社などの記事から特定資料集を作成し、これに基づいて体系的に意見を述べるのも困難になってくる。そのあたりをどう考えるか、次回以降に考えを述べることにしたいと思う。

 基本点としてもうひとつ、この「声明」でも述べられているように、引用や転載の許諾の問題は、利用者の動機や利用形態に大きく依存する点に留意しておく必要がある。
たとえば、スクラップブックと同じ内容のものが、コマーシャルのバーナーつきで紹介されたり、有料サイトの情報提供の一環として紹介されたとする。内容が同じであっても営利が目的であるということになれば、許諾の判断は変わってくるだろう。あるいは、経営最優先の新聞社があったとする。その新聞社の記事を引用する「日記」が結果的に新聞の部数拡大に貢献しているならOKするかもしれない。同じ内容でも、他新聞社系列のサイトの中で紹介されることになればOKしないかもしれない。(もっとも、そういう利権がらみで情報伝達の許容範囲が異なってくるとすれば、これもまた問題だろうが)

 このほか、記事内容の緊急性や公共性も大きく影響してくる。大地震や火山噴火についての予知情報や伝染病の予防情報などは、学者のコメント入りの記事を伝えたからといって、まず訴えられることはなかろう。汚職事件、公害問題などの情報伝達も、許諾は寛容になるであろう。いっぽう芸術的な作品に近いものであれば、認めない方向に働くであろう。このあたりも次回以降に論じたいと思っている。
まごちゃんは、62歳70g。


971112(水)
[日記]伝言板書き込み自粛宣言
 このところ、著名な日記作者がつぎつぎと(←ちょっと大げさか)伝言板や掲示板を開設している(以下、冗長さを避けるため「伝言板」の呼称だけを用いる)。私はネット界のことには殆ど知識がないので正確なところは分からないが、どうやらタダで伝言板や掲示板を提供しているサイトが複数あるらしい。そのせいか、今では伝言板・掲示板を併設していない日記(私の日記も含む)のほうが、むしろ少数派になってしまった観がある。

 伝言板とか掲示板にもいろいろなタイプがある。あくまでWeb日記を読みに来た人が挨拶替わりに記帳するゲストブックのようなものもあれば、オーナーが誰なのか分からないほと、いろんな人が書き込む伝言板もある。話題も、オーナーの日記について感想を述べたものから、オーナーには全く関係のない私信のやりとりのようなものもある。

 私はもともと、日記本文至上主義者のようなところがあって、Web日記の本文だけは拝見するが、作者のそれ以外のページには殆どアクセスしない傾向があった。とうぜん、併設の伝言板の存在にも気づかなかったが、ある時(私の記録によればThu Sep 11 12:40:31 JST 1997)、とっても雰囲気のよさそうな掲示板を見つけ、以後、そこだけには毎日のように書き込ませてもらってきた。これは、オーナーの人格を反映したアットホームな雰囲気もさることながら、その雰囲気を慕って訪れるようになった投稿者各位の個性的な魅力にもひきつけられたためではないかと思っている。
 Web日記は、ふつう1日1回の更新しかない。それゆえ、他の日記の感想を述べる「私信日記」のようなものは、1日遅れで公開される。その返事はさらに1日遅れる。これが、伝言板であれば、即日伝えられるし、メイルと違って、そこに寄り添った人どうしの「会話」もうまれる。こういう双方向型で即時的なフィードバックの存在が、「伝言板文化」を作りつつあるのではないかと思う。
 私は早寝早起きを鉄則としているので、夜はネットにつながない。いっぽうこの日記は寝る前に書いて、翌朝にアップしている。そのため、例えば23時頃に書かれた日記についての感想を書くのは翌日の夜、アップは翌々日の朝になるから、日記経由で感想を披露するのは最短でも33時間後になってしまう。

 しかし、伝言板は、いつでも楽しいものとは限らない。不特定多数が匿名で書き込める状況のもとでは、初めから嫌がらせを目的とした悪意に満ちた書き込みもありうるし、また、本人自身は場を盛り上げるユーモアのつもりで書いても、オーナーや別の発言者をひどく傷つける場合もありうる。

 本日たまたま、私が書き込みのきっかけを作ってくれた某伝言板が、一時的との断り書き付きながら休止されてしまった。また、同日の昼に気づいたことだが、別の伝言板にアクセスしたところ、パスワードの入力を要求された。それぞれ別の事情があって休止もしくは変更されたものと思うが、これをきっかけに自分自身の、このところの書き込みを振り返ってみると、少々、悪のりしすぎたことは否めない。40代のオヤヂの暴走はチトかっこ悪すぎる。それと、まあ、誰とは言わないが、私のあとを追っかけてくる人まで出てきたこともあるし(今回の自粛宣言は、あくまで私自身の悪のりを自戒したものであって、追っかけ人には一切責任はない。念のため)。
 そこで、いろいろ考えた末、当分のあいだ、伝言板や掲示板への書き込みを自粛し、私ほんらいの「日記本文至上主義」に戻ることにしようかと決意した。また、今までどおりに伝言板にアクセスするとどうしても書き込みたくなってしまうので、当分は、拝見すること自体も自粛したいと思っている。伝言板を併設する日記作者の方々にはご迷惑をかけてしまった。1週間以内のうちに、私がこれまで書き込んだ伝言板のオーナーの方々には、個別にメイルを送ろうと思っているが、とりあえず、この場を借りて、お詫び申し上げたいと思う。
 なお、最近では他の方の日記の感想を作者の伝言板に書き込ませていただくことがあったが、今後は「★」日記(このページからリンクされている「★日記」のこと。念のため)の充実と、毎月末恒例の「日記読み日記」の充実で補っていきたいと思う(←誰も期待していない)。もうひとつ、ここで書き込みを自粛する伝言板には、「日記猿人掲示板」だけは含まれない。これは、いろいろ要望を出させてもらうための掲示板だから、いままでどおり、なにか気づいた時には書き込ませてもらいたいと思う>遠藤さん、よろしく。
まごちゃんは、61歳。70g。


971111(火)
[心理]オカルト・超能力と心理学(最終回)
 今回の安斎氏の講演は妻も聴いていたので、感想を聞いてみた。それによれば、 ということだそうだ。2時間余りの講演時間だったから、これでよしと考えてもよいのかもしれないが、私としては、もう少しツッコミを入れてみたいところがある。
 きのうも指摘したように、今回の講演では、「超能力、占い、霊魂、迷信などの否定(種明かし)」から「科学的命題群と価値的命題群の区別(何もかも科学では扱えない)」という方向に話が発展した。そして私が提起した疑問は、「超能力、占い、霊魂、迷信などの否定(種明かし)」は、科学的命題群に関する話であるため、この議論だけからは価値的命題群にかかわるオカルト志向を排除できないのではないかという点にあった。昨日も指摘したように、実際問題として、オカルトや超能力信仰が根強く影響するのは、事実判断ではなくて価値判断を伴う場面なのだ。占いも然りである。いくら事実判断場面でのオカルトや超能力の非科学性を否定しても、価値判断場面での具体的なアプローチが明示されなければ、聞き手の生き方は何も変わらないのではないだろうか。
 では、どうすればよいのか。これは、価値的命題群をどうとらえるかによって2つに分かれる。第1の道は、価値的命題群はどうせ科学では扱えないのだから、と居直って、現実場面での事実判断をなるべく避けて、不合理でもよいから価値判断のみの世界に埋没することであろう。世捨て人となって瞑想の世界にふけるとか、抽象芸術の世界に没頭することなどがこれにあたる。
 もう一つは、これがまさに行動分析学のめざすものなのだが、価値的命題群にも科学のメスを入れていこうというアプローチである。価値的判断では確かに、事実と照らし合わせて真偽を客観的に決定することはできない。しかし、どのようにして価値が形成されるのか、どのようにして、信念が形成されるのかといった、価値形成、信念形成のプロセスには科学のメスを入れることができる。これがまさに行動科学であり、私はそのなかでも行動分析学の方法を最も妥当なものであると考えているわけだ。
 例えば、ある人が「たたり」を恐れて、ある儀式的な行動を繰り返し行ったとしよう。科学的な事実判断から言えば、「たたり」は存在しない。しかし行動分析学的な見方からすれば、「たたり」がその人の行動に影響を与えている限り、負の強化子としての「たたり」は、明らかにその人にとって存在する。では、儀式的な行動に固執しすぎて日常生活に影響が出ている場合は、どうやって改善したらよいのか。「たたり」の存在を科学的に否定するのも一案ではあるが、そういう説得だけ変わるとは限らない。「たたり」という負の学習性の強化子を、条件づけ理論の多様な技法を駆使することで無力化していく。このことが、「たたり」の存在を消去する唯一効果的な方法なのである。
 要するに価値的命題群との関わりで言えば、「たたり」が存在するかどうかを自然科学的に証明することが重要なのではない。重要なのは、ある個体において、「たたり」というある種の「ルール」がどのようにして形成され、どのようにしてその個体の行動を支配しているかを科学的に解明することなのだ。
 じつは、このように考えてみると、「どう生きるのか?」を考える場面には、安斎氏が否定する「オカルト・超能力まがい」のものがたくさん存在しているのだ。例えば、「こっくりさん」で机を動かすのが「霊魂」だと言えば安斎氏は否定するだろう。しかし「無意識」と言えば否定するだろうか。「霊魂」が非科学で「無意識」はなぜ科学なのか。否、どちらも同類である。同じような「オカルト・超能力まがい」の「容疑者」に「潜在意識」、「深層心理」がある。自然科学者は、しばしばこういう言葉を使うけれど、オカルトとどこが違うのだろう?
 話題が少し変わるが、もうひとつ安斎氏が言及された「科学を何に用立てるべきか」という問題についても、考えることがある。時間がないので、これはまた別のトピックに関連づけて論じることにするが、私は、そもそも、科学的命題群と価値的命題群は完全に分離できるものではないと考えている。つまり、科学的命題群は、価値的命題群によって動機づけられている。科学研究とは、普遍的な真理をそっくりそのまま認識することではない。自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていく人間行動なのである。うむ、これを論じるには1ヶ月かかる。とりあえず、9月21日の関連記事を御高覧いただきたい。その続きは、別の機会にご期待を。
まごちゃんは、ついに還暦。71g。冬眠ばかりさせているので、特に感激はない。


971110(月)
[心理]オカルト・超能力と心理学(その3)
 きょうは、安斎氏の講演の結論部分をまとめ、私自身が少々疑問に思った点をかかげてみたいと思う。きょうで最終回の予定にするつもりだったが、時間が足りないので1回分延長し、明日で完結ということにしたいと思う。
 安斎氏は、講演の最終部分「どう生きるか?」というところで、「科学の積極的役割と限界」および「人生、どう生きるか?」というテーマを扱っておられた。その概要は次のとおりであった。
まず、「科学の積極的役割と限界」では、「何もかも科学では扱えない」として、2つの命題群を掲げておられた。
  1. 科学的命題群:事実と照らし合わせて真偽を客観的に決定できる。
    1. 3+4=7
    2. 『源氏物語』は紫式部によって書かれた。
    3. ウランは中性子照射で核分裂する。
  2. 価値的命題群:命題の真偽が価値観に依存する。
    1. ピカソの絵は素晴らしい。
    2. 人はすべて等しく生きる価値をもつ。
    3. 核兵器は廃絶されるべきだ。
 さらに、安斎氏は、「『科学』とは?」という所で、「科学とは、世界の一部分を対象領域とする、経験によって論証できる体系的な合理的知識」という岩波『広辞苑』の定義を引用された。この定義は何でも湯川秀樹氏による定義だそうだ。そして、「科学を何に用立てるべきかは、科学それ自身からは導かれない」と主張し、
  1. 価値観の形成:何が価値あるものかを自分なりに発見する(価値観の形成)
  2. 価値実現のために自然や社会に主体的に働きかける(主体性の獲得)
  3. 自然と社会のなりたちについての体系的・合理的認識の修得(科学的世界観の修得)
  4. 価値観が違うというだけで相手の人権を奪わない(自己の相対化)
という4つを、「人生、どう生きるか」の結論としておられた。
 安斎氏の講演は、おおむね納得のいくものだった。特に、「分からないことは引き続き調べればよい」という物の見方は、私が7月9日に書いた「血液型と性格をまじめに考える(12)わかりまへんことはわかりまへんちう勇気」と完全に一致するものである。
 しかし、そのいっぽう、この講演を聴いた人々が結論部分に納得してオカルトや超能力に頼らない積極的な生き方を見いだせるようになったか、というとこれは疑問である。その理由を、講演内容の構成に基づいて指摘してみたいと思う(2時間余りの講演で人の生き方を変える、ところまで話すというのは、もともと無理といえばそれまでのことだが)。

 安斎氏の講演は、「オウム真理教事件の意味するもの」、「心配な近年オカルト事情」、「超能力・心霊現象の社会史」、「どう生きるのか?」という構成になっていた。
 初めの「オウム真理教事件」では、「なぜ高学歴の研究者がオウムに入信したか」という解説が中心であった。この解説は確かに納得のいくものであったが、聴く側としては、自分はどうせ高学歴ではない。最年少で司法試験に合格した青山氏をはじめ、理系の秀才連中と自分とは違う、あくまで他人事であって自分の生き方とは関係ないのだという前提ができあがってしまうのではないかと感じた。(余談だが、神戸の小学生連続殺傷事件の解説を聞く場合も同様であろう)。
 次の「心配な近年オカルト事情」と「超能力・心霊現象の社会史」の話を聞くと、とりあえず、世間でもてはやされているオカルト、超能力、占い、霊魂、迷信などは、何の根拠もない馬鹿馬鹿しいものであることが理解できる。しかし、では、馬鹿馬鹿しいから、今日から止めましょうということになるのか? 人間の心はそう簡単に変わるものではない。例えば、このシリーズの1回目のなかで、
「幽霊肯定率」は小学生よりも中学生、中学生よりも高校生のほうが高く、しかも70-85%に達している。1946年の類似の調査では、幽霊を信じている人は都市部で5%、いちばん多い漁村でも10%にも満たなかった。科学の進歩は必ずしも幽霊の否定につながっていない。
という事例を紹介したが、それではなぜ、科学が進歩した現在、幽霊を肯定する若者が増えているのか、それも小学生よりも高校生のほうが増えるのはなぜか、という原因がいまひとつ納得できないままに終わってしまったように思う。
 そして、いちばんの問題は、いろいろなオカルトや超能力を否定したあとで、多少は科学的な生き方をしてみようかという気分になってきたところで、上記の「何もかも科学では扱えない」という結論に誘導されるところである。聞き手はどうぜん、「何もかも科学では扱えない」ならどうすればよいのか、という疑問をもつ。しかし、それに対する答えは、科学以外の文学、芸術、宗教などに頼るということで、そこでは「真偽を客観的に決定できない」から、「価値観が違うというだけで相手の人権を奪わない」という結論に達するのみである。
 となると、我々は、事実判断の上ではオカルトや超能力を否定できるが、価値観に依存する判断では、否定できないという自己矛盾に陥ってしまう。
 実際問題として、オカルトや超能力信仰が根強く影響するのは、事実判断ではなくて価値判断を伴う場面なのだ。占いも然りである。いくら事実判断場面での、オカルトや超能力の非科学性を否定しても、価値判断場面での具体的なアプローチが明示されなければ、聞き手の生き方は何も変わらない。安斎氏は、最後に「今、オカルトに浮かれている場合じゃないだろう」という言われたが、では、「オカルトに浮かれずに生きるにはどうしたらよいのか」この部分の判断を委ねられた聞き手が次にどういう行動をとるのか、おそらく何も変わらないのでは? というのが素朴な感想である。
 では、私はどう考えるのか、ということになるが、時間がないので、この続きは明日に。
まごちゃんは、59歳71g。


971109(日)
[心理]オカルト・超能力と心理学(その2)

 昨日に引き続いて、安斎氏の講演を聴いて「じぶんを更新」した部分をメモ代わりに書きとめておくことにしたい。
 まず、昨日書き忘れたことから。安斎氏の講演ではスプーン曲げと、コップに水を入れてティッシュで覆い逆さにしても水がこぼれないという手品の実演があった。ここで公表するわけにはいかないが、どちらも種明かしがあったことを、ここに記しておきたい。
 さて、昨日の続き。ただし、『人はなぜ騙されるのか』と重複する部分はなるべく避けたいと思う。また【 】内は、長谷川の感想。  以上、講演の最後の部分を除いて、私がなるほどと思ったことを箇条書きにした。次回は、講演の最後の部分の論点と、それに対する私なりの考えを述べたいと思っている。
 今日は家族で半田山(大学の裏山)のハイキングをした。小粒のシイ、細長いウラジロガシ、丸くて大きいクヌギなどたくさんのドングリが落ちていた。ドングリの数はものすごいが、発芽して大樹に育つのは、おそらく何百何千のうちの1つであろう。無駄が多いにもかかわらず栄養分豊富なドングリの実をあんなにたくさん作ることは、森林環境において適応上どういう意味があるのだろうか。ふと疑問に思った。まごちゃんは58歳。72g。


971108(土)
[心理]オカルト・超能力と心理学(その1)
 夜、「レスパール藤ヶ鳴」の温水プールとサウナの中でサッカーの試合を見た。相手国はカザフスタン。ソ連崩壊前に訪れたことのある首都のアルマアタ(今のアルマトイ)のことを思い出したので、期間限定で写真を一枚(但し57KB)。
 時間は前後するが、きょうの午後は、『人はなぜ騙されるのか』(朝日新聞社)という本で知られる安斎育郎氏の講演会が大学内であった。同じ時間帯には埋蔵文化センター主催の遺跡巡りハイキングも計画されており、どちらに参加するか迷ったが、スプーン曲げなど「超能力」手品の実演と種明かしがある、という前評判につられて、こちらのほうに参加することになった。子どもたちに留守番させて妻も聴きに来た。余談ながら、講演会の会場は、私がいつも水曜日に授業をやっている教室であった。同じ講義室でも、教壇から話をする時と、受講側の席に座って講演を聴くときでは全く別の部屋に見えてしまうのだから不思議なものだ。
 安斎氏は、かなり講演慣れしている方らしい。「オウム真理教の意味するもの」と題して、なぜ高学歴の研究者がオウム真理教へ入信したかという問題、「近年のオカルト事情」と題する若者のオカルト志向について、さらに「超能力・心霊現象の社会史」、最後に「どう生きるか?」と題して、科学の積極的役割と限界について話をまとめられた。細かい数値なども全部暗記しておられ、いちいち講義ノートのようなものを参照せずにしゃべり続けられた。
 講演の内容は私が「心の科学」という授業の初めの数回でとりあげる話題と似ていて、おおむね納得できるものであった。但し、最後の「科学とは何か」と「どう生きるか」という部分では、私自身はかなり異なる見方をもっている。
 この日記は、2-3回のシリーズで、この講演から学んだことと、安斎氏の主張に対する自分の考えを述べたいと思う。1回目のきょうは、講演を聴いて「じぶんを更新」した部分をメモ代わりに書きとめておくことにしたい。 時間がなくなってきたので、次回に続く。
 安斎氏の講演のあと、私が雑用を済ませている間、某所で妻に日記猿人の「当日の得票ランキング」を見せる。あとでどれを読んだか聞いてみたところ、1つは、これだった。やはりトップの実力はすごい。もう1つはこちら。初めて見た者にとっては「いったいこれ何?」という印象を与えたためであろう。内容を理解できたかどうかは定かではない。
まごちゃんは57歳73g。


971107(金)
[一般]ゲームソフトと古典的ゲーム(最終回)
 今日は立冬だそうだ。大学の南北通りの銀杏が美しい季節になった。今朝はNHKのテレビカメラも取材に来ていた。夜、南の空に木星と半月がかなり接近して見えた。あの半月が丸くなる頃には獅子座の流星群がピークになるはずだ。満月と重なって最悪のコンディションだが、火球が見えるかもしれないなどと言われている。それから、今年の春に私が夢中になったヘールボップ彗星の「最後の」画像が、怪鳥さんのページに公開されていた。あの彗星にはあまりにも思い出が多い。あんなに小さくなっても涙が出るほど懐かしく感じられた。
 さて、今日はこのシリーズの最終回。昨日の日記で自分自身に宿題を課したものの、時間の関係で全部は書ききれないし、また十分なデータが揃っていないこともわかった。そこで今回は、ゲームと人間関係の問題に絞って、思いついたことを列挙しておきたい思う。

 さて、前回までに、囲碁と将棋のことを書いたが、高齢者にはそれらを趣味としている人が多い。私の父は、私が小学生の頃に囲碁を覚え始めた。そのうちメキメキ上達し、アマながら有段者になっている。いっぽう義理の父のほうは、将棋が相当の腕前で、私は一度も勝てない(父と将棋をやり、義理の父と囲碁をやれば、たぶんどちらにも圧勝するが、こんなのは自慢にもならないなあ)。どちらも70を過ぎているが、父のほうは近くの碁会所に、義理の父のほうは町内の集会場に行って、それぞれ囲碁と将棋を楽しんでいる。どちらもボケの防止には役立っているはずだし、これによる人的交流の意義も大きいと思う。

 で、もし、パソコンソフトの囲碁や将棋が十分なレベルに達したとしたら、どうなるだろうか。あるいは、碁会所などには通わずに、一日中パソコンに向かって囲碁や将棋で遊ぶ毎日になるのか。もしパソコンソフトの影響で外界との交流を断つことになれば、これはやっぱり不健全であるように思う。

 息子が幼稚園年長〜小1の頃だったが、近所の同級生たちが、学校が終わると毎日のようにファミコンをやりにきたことがあった。ずいぶん友達づきあいが活発なようにも見えるけれど、実際は交代でファミコンをやっているだけで、残りは漫画を読んで順番を待っている。こうなると、いっけん集団で遊んでいるように見えて、じつは、個々人が、孤独なゲームの順番待ちをしているだけの「遊び」になってしまう。向かい合って将棋や囲碁をするのに比べると、少々問題を感じざるを得ない。

 もっとも、ポジティブな面がないわけでもない。以前轟木さんから話を聞いたことがあるが、パソコン通信時代から、ネット回線を介して囲碁や将棋の対戦を楽しむ人がいるという。コンピュータソフトの囲碁や将棋が普及することは、一般には、人間対人間の付き合いを疎遠にする可能性がある半面、世界中の同好の仲間と対戦を楽しめるメリットも与えているようだ。

 もうひとつ、麻雀についても少しだけ。私が麻雀に熱中していた頃は、面子(ゲームの参加者)というのは思考ゲームの道具のような所があって、必ずしも懇親の目的があったわけではなかった。どうしても面子が揃わない時など、大学構内のベンチに座っている見知らぬ学生に「あなた今暇ですか」などと声をかけて麻雀に誘ったことさえあった。いま考えると宗教団体の勧誘みたいなものだ。しかし、そういう付き合いはその日限りのものであったから、お互いに相手を「思考ゲーム」の道具と見なして割りきっていたように思う。
 学生時代に過ごしたあたりを通ってみたことがあるが、昔あった雀荘はほとんど姿を消していた。いまの学生は、徹夜麻雀の代わりに何をやっているのだろうかとふと疑問に思うが、麻雀の衰退が人付き合いを疎遠にしていると考えるのはあまりにも大げさだろう。
まごちゃんは、冬眠解除する暇がなく、昨日のまま。


971106(木)
[一般]ゲームソフトと古典的ゲーム(その2)
 このタイトルは、囲碁、将棋といった古典的ゲームについて書くつもりでつけたタイトルであったが、「ゲームソフトの古典的ゲーム」と誤解されやすいことにふと気づいた。で、ついでながら、パソコンゲームの古典のことをちょっと思い出してみると、あれは10数年前だったと思うが、当時のパソコン(あのころは「マイコン」と呼んでいた)は、シャープのMZ、NECではPC9801のFとかMが出てきたころだったと思う。あの頃に熱中したものと言えば、MZでは、名前は忘れたが、迷路ゲームとスタートレック、PC98になってからは、フラッピー、倉庫番、ドアドア、ロードランナーなどが記憶に残っている。特にフラッピーと倉庫番に熱中したものであった。(どちらもWindows95版として今でも売られている。特にフラッピーについては、企画倒れながら公用ページで紹介しているほどである。)

 さて、ちょっと脱線してしまったが、ここではあくまで古典的ゲームのソフト版について考えを述べようと思う。
 昨日は囲碁と麻雀をとりあげたので、きょうはその続きとして、将棋からとりあげることにしたい。将棋に関しては、10年ぐらい前から、相当に強いものが出ていたように思う。強い、弱いと言っても、私自身のレベルを基準に比較するしか方法がないので客観性はないが、囲碁のソフトを幼稚園児とするなら、同時期の将棋ソフトは小学校高学年ぐらいの実力があったと思う。例えば、当時の「森田将棋」。思考時間を最長に設定すると相当待たされることがあったが、私の将棋のレベルから言えばけっこう強く、負けたことも何度もあったように記憶している。現在我が家にあるのは、これとは別のソフトだが、これも結構強い。というより、将棋の場合、一手でもしくじると挽回が難しくなる可能性が高く、コンピュータにすきをつかれやすいせいかもしれない。

 このほか、スーパーファミコンのソフトになるが、連珠のソフトもある。これは私の実力が無いせいだろうが、大概こちらが負けてしまう。

 古典的ゲームの範疇からはちょっと外れるが、今日(11/6)のフランケンさんの日記にパチンコのことが書かれてあった。私も学生時代にはよくパチンコをやったものだ。ただ、私がパチンコを始めた頃の台は、左手で1個1個玉を入れて、右手でバネをはじく旧式のものだった。そのうち、自動給玉式に変わっていったが、バネをはじくこと自体は変わらなかった。またヤク物といえば、チューリップだけ。つまり、チューリップが開いている時に2個の玉を入れてもう一度開かせるのが秘訣であった。その後、急速に関心がなくなり、まったくパチンコ屋に入らなくなってから、もう10年以上たつのではないかと思う。関心を失ったいちばんの理由は、親指でバネをはじくパチンコ台が無くなったことにある。ダイヤルを回して強さを調節するというのでは、勝っても負けても、打っている実感がわかない。
 このパチンコについても、スーファミ用のソフトがある。夏の祭りで1000円で3個、1500円で5個という中古カセットの安売りをしていた時に、息子が嫌がるのを無視して買ったものである。面白いのは「固定砲台」という名前のバネ固定アイテムがあって、これを「景品交換」で入手すれば、勝手に玉が出て、打ち止めまで打ち続けてくれるというものだ。これはなかなか便利であるが、放って置いても打ち止めまで勝手に打ってくれるとなると、そのあいだいったい何をしていればよいのか疑問に思うようになる。もちろん子どもたちも全く関心を示さない。やはりゲームというのは、ヒトの能動的な働きかけに応じて結果が随伴するようなものでなければ面白くない(おそらく、このパチンコゲームに熱中できるのは、私のようにかつてパチンコで大負けした経験をもつ者だけだろう。連続打ち止めの夢を実現して、うさをはらすことができるのは確かだから)。

 以上、ひととおり古典的ゲームのパソコン版、スーファミ版を見渡してきた。私は、ゲームソフトの評論家ではないので、ここに書いたことはあくまで、たまたま購入した数点のソフトに限定した感想文であることに留意していただきたいと思う。
 さて、これからが本題になるのだが、そもそもコンピュータ相手にゲームをするということは人間相手の場合とどう違ってくるのか、また、今の子どもたちはパソコンやスーファミ(あるいはプレイステーションなど)を通じて、本当に将棋や囲碁を好きになることがあるのか、こういうゲームに熱中すると人間関係はどうなるのか、といったことが、私にとっては一番の関心事となる。次回以降、このことについて意見を述べたいと思っている。
きょうは小春日和の暖かい一日だったが、こういう夜に限って私のアパートでは蚊が大量に出現する。これだけ多いとごまさん(11/1)の所のように隠れる場所も見つからないらしい。大概は天井に張り付いている。夕食後に12匹、たった今さらに3匹をハエ叩きで叩いた。どこか室内の花瓶かハイドロカルチャーの瓶の中で発生しているのだろうか。ちなみに私の家はアパートの4階であるが、。網戸をつけ、蚊帳をつって寝ている。
 まごちゃんは56歳。ちょっとだけダイエットして73g。


971105(水)
[一般]ゲームソフトと古典的ゲーム(その1)


 先日、息子の誕生祝いに、パソコン用ソフトを3本買ってやった。このうち「新テーマパーク」は大当たりで、娘も加わって熱中しているが、他の2本は全く人気が出ない。じつは2本というのは、「囲碁」と「麻雀」のソフトであり、誕生祝いにかこつけて自分で遊ぶために買ったようなものである。11/1から11/3の大学祭の最中は、騒々しさを避けてもっぱら家で過ごしたが、その時に遊んでみた感想を述べたい。
 「囲碁」のほうは、操作は簡単だが、あんまり強くない。9子置かせてみたが、それでも88目勝ちを最高に、毎回数十目以上圧勝してしまう。というと私の棋力が相当レベルであるように思われてしまうが、有段者には9子置かせてもらっても勝てない。オセロやチェスに比べると、囲碁のパソコンソフトと人間の差はまだまだ離れているような感じだ。
 「麻雀」のほうも、比較的勝ちやすいようにできている。娘に教えながら遊んでいたら、何と「四暗刻」の役満で上がれた。役満ができたのは、学生時代に九連宝燈を完成して以来20数年ぶりのことである。囲碁と違って麻雀の場合は、ソフトが強い弱いというより、どこまで駆け引きができるかというところに面白味があると思うが、このソフトは安かったこともあって(500円未満)、もっぱら自分の手作りを楽しむ内容になっているようだ。
 しかし、囲碁も麻雀も、何よりも気軽に遊べる点がよい。学生の頃は、麻雀の面子が足りないと、授業中の教室まで潜り込んでいって仲間を探したほどであった。純粋に思考ゲームとして遊ぶなら、相手が人間であってもコンピュータであっても面白さは変わりない。接待麻雀や家族麻雀、その他、親睦を深める目的の麻雀なら別であるが。
 “日刊「懲りない話」”の「はかせ」さんが日記猿人の登録を抹消されたことについては、私自身の10/30の日記が何らかのきっかけをつくったのではないかと反省している。もっとも、はかせさんは前から日記猿人離脱のタイミングをはかっておられたそうだ。その背景には、毎回のことながら、読んだよボタン得票ランキング上位者に対する嫌がらせ行為があったことは確かである。この件に関しては、後日あらためて意見を述べることにしたいと思う。
 まごちゃんは、今日も冬眠解除する暇がなかった。


971104(火)
[生活]30代、40代...
 朝、日記をアップしてから実験室周辺の空き地を耕してスイセンの球根を植える。研究室に戻って、さあ仕事という時に、急に「食道の裏側」あたりに締めつけられるような痛みを感じ、おもわず机にうずくまってしまった。この痛みは5-6年前からごく稀に起こるもので、いちおう「食道の裏側」とは書いてみたが、消化器系なのか呼吸器系なのか、あるいは血管系なのか、いちども医者に相談したことがないのでどこが悪いのか分からない。ひどいときには釘を呑み込んだような痛みが走り、血を吐いてしまうのではないかと思うほどである。こうやって、いつかは倒れて意識を失うのだろうか、などと思ってみたりする。
 そのあと10時から委員会があった。代理をたてて保健センターで診てもらおうかと思いつつ、胸をさすりながら会議室まで行く。しばらく目をつむってじっとしていたが、三度の飯より論争の好きな私である。議論が白熱してくると、黙っていられなくなってきた。けっきょく会議は12時50分頃までかかったが、終わってみると痛みはどこかに消えていた。私のような人間は、やっぱり、議論に参加することこそが最良の薬になるようだ。

 会議が長引いたおかげで、いつもより1時間近く遅れて家に戻って昼食をとる。ちょうどNHKの「スタジオパーク」という番組が始まったところだった。この番組、年休をとって家でゴロゴロしていた時に1度視たことがある。そのときの出演者は三田佳子さんだった。きょうはいきなりモノクロで男性歌手が紅白で歌っている映像が出てきた。「あれは、確か、サ、ガ、ワ、ミ、..」くらいまで頭に浮かんできたところで、「きょうは佐川満男さんです」という案内があった。芸能界の知識を殆どもたない私であるが、確かに昔、佐川さんという歌手がいた。
 しかし、司会者の案内に続いて人の列の向こうから現れたのは、白髪混じりの頭のはげた初老の男性であり、モノクロに映っていた男性からは想像つなかにぐらいに老け込んでいた。57歳になったそうである。私は、ふだんはテレビドラマや映画を殆ど視ない。また稀にみることがあっても、その役を誰が演じているかということには全く興味をもたない。そういう意味では、佐川さん御自身を拝見するのは30年ぶりぐらいであったと思うが、モノクロ映像と初老の佐川さんのギャップはあまりにも大きかった。番組では、佐川さんが絵が得意であること、演劇活動もやっていたこと、歌手としてデビューしたが、自分の好みの歌とは違う方向に作り上げられていったことなどを語っておられた。こういうことは芸能界では、よくあることなのだろう。私生活がどうであっても、清純派で売れると判断されたら、その中でしか自分を出すことができない。悪役の場合も同様だ。職業選択の自由があっても、現実の空きポストがなければその職には就けない。こういう矛盾は誰でも感じ、どこかで妥協しなければならないのが現実であろう。

 こんなことを書こうかと思ったきっかけは、きょう(11/3)の立花さんの日記である。「永遠も半ばを過ぎて」というコメントがついていたので、拝見してみると、いちばん最後に、
自分では永遠に少年でいるつもりでいても、確実に僕は年齢を重ねていく。僕に残されたあと1年半とちょっとの20代を、いかに有効に使えるかで、僕の30代は全く違ったものになるような気がしてならない。

決めるべき時に決める」為には、「決められる」だけの下地を作っておかなければ何もできない。僕にとっての永遠は、もう半ばを過ぎてしまっている。
と書かれてあった。うーむ、では私のように30代を過ぎてしまった人間は、これからどうすればよいのだろう? このことで書き出すと何時間もかかってしまうので、今日は見通しだけ述べておくが、確かに、確かに立花さんの11/3の日記に書かれているように、
「決めるべき時に決めにかかる」ことの大切さ。ずるずると生活に流されることなく、決めるべき時を確実に押え、一気に畳み掛けるように決める、.....
ということは大切ではないかと思う。私自身も、オーバードクターを6年も続けている時期に、こういうことを考えた。ただ、結果的に思い通りにならなかったとしても、それで挫折ということにはならないだろう。例えば、岡山県に住んでいると、「本当にここに永住してもよいのだろうか」と思うことがあるが、では北海道に移り住んだらどうかと言えば、たぶん数年もたたないうちにまた、「本当にここに永住してもよいのだろうか」と思うだけであろう。職業の場合も同じ事がある。初めから適性があって、それにあった仕事を探すのではなく、与えられた環境の中で最大限に自分を活かすことを考えたほうが結果的に本当の適性を見出す可能性にもつながるかもしれない。
 いずれにせよ、わたしにとっては30代は過ぎ去った昔の思い出にすぎない。初めに書いたような健康上の問題も徐々に生活に影響してくると思われるので、この日記もいずれ「じぶん更新日記」から「ボケ防止日記」に名称変更する必要が出てくるのかもしれない。40代の日記書きの皆さん、がんばりましょうね。
まごちゃんは、また冬眠解除をする暇がなく、昨日のまま。


971103(月)
[日記]10月の「日記界」をふりかえって(最終回:日記テロルの現状と、「拝見」さんの後継者)
 きょうは、月末〜月初め恒例の日記読みシリーズの最終回。
 10月の日記でまず注目されたのは、ぴったんこさんの「新着さんいらっしゃ〜い!」が、正式に発足したことであろう。これによって、1000番以降の新着日記については、ぴったんこさんの目を通した情報とはいえ、いちいちアクセスしなくても概要を知ることができるようになった。しかし、その後の日記の増加もすごいものだ。手持ちのデータによれば、9月29日の18:42の時点で最新の日記がこの999番の「新着さんいらっしゃ〜い!」、これが11月1日の朝の時点で1081番まで増えている。なお、離脱分と管理用を除いた日記数は、9月29日夕刻がが865本、11月1日朝が936本であり、実質71本の増加(ということは、11本の離脱があったことになる)。このぶんでいくと、来月初めには、実質の日記数も1000本を超えることになるだろう。

 ぴったんこさんの新企画のせいか、最近のBOWDOさんはすっかりネタ不足となり、隠居じいさんの茶飲み話みたいになってきた。BOWDOと言えば、以前は「○○ テロル」というように、かならず「テロル」という言葉がついていたものだったが、10月以降のコメントを拝見すると...(日付は、1日ずれている可能性あり) といった具合だ。全部をチェックしたわけではないが、半分近くの日記から「テロル」の言葉が消えているのは興味深い。なお、私事になるが、10/29頃のBOWDOによれば
ハセピーの京都のおもひで・・・「船岡温泉」「大徳」「敦煌」ってのは完全に僕の行動半径とダブってます。ひょっとしたら並んで銭湯でからだ洗ってたり、一緒にみそラーメンすすってたかもしれません。
ということだ。私は、1986年の3月まで京都に住んでいたので、この可能性はひじょうに高いと思う。

 おっと、変な方向で話題が発展してしまった。これ以外の10月のできごとを手短にまとめると  それから、これも日記界では重大ニュースの1つであるが、「拝見してはイケンする」さんが10月下旬に執筆を中止され、登録そのものを抹消された。登録番号の若い順番に日記猿人登録日記を紹介するという壮大な試みで、確か「086」まで続いたと記憶している。冒頭のぴったんこさんの企画と合わせて、日記界の全容を知るきわめて有意義な企画だっただけに、たいへん残念に思う。この壮大な企画を引き継ぐ方、どなたかおられないだろうか。もっとも、これだけの試みとなると、データ収集能力と幅広い知識をもち、毎日日記を更新できる持続力のある方でなければ、引継は困難であろう。さっそく、最近の新作200(手動更新のみ)リストをながめながら思いを巡らしてみるが、うむ、一人だけ、適任者がおられた。どうしても知りたいかたは、こちら【期間限定】をご覧ください。意味のわからない人は、それ以上詮索しないこと!。
まごちゃんは、55歳77g。


971102(日)
[日記]10月の「日記界」をふりかえって(その4:日記名に関する話題)
 きょうは大学祭の2日目。昼は、家族で構内を巡り、焼きそば、たこ焼き、うどん、ラーメンなどを食べた。17時すぎに研究室から歩いてアパートまで帰ったが、ちょうど、西の空に月齢1から2ぐらいの細い月が、南西には明るい金星が、真南には木星が、東には土星が見えた。怪鳥さんの日記を拝見したところ、金星があそこまで南方向に見えるのは8年に1度のできごとだという。手元に天文年鑑がないのではっきりしたことは言えないが、きょうの位置関係からいうと、たぶん明日(11/3)の夕刻には、三日月と金星がかなり接近するのではないかと思う。

 きょうは、10月のできごとのうち、日記名に関連する話題をまとめてみることにしたい。
 この話題で真っ先にとりあげなければならないのは、ホリウチさんの日記だろう。ご存じのように、現時点では、「MADE IN JAPAN!あるいは、とほほ日記(仮)」となっている。
 「とほほ」からの連想になるが、9月下旬にI氏が、とつぜん「★」という名前の日記を始められた。この方の1行コメントには、他の日記作者、日記猿人とは無関係の伝言板、日記猿人の管理者への批判が含まれているので、今後の資料として必要最低限の箇所を、ここに引用させていただく。なお、固有名詞はイニシアルに変更したが、日記猿人の管理者の方の名前はそのまま残してある。
 私は、このI氏の問題にはあまり深入りしたくないが(←これだけ引用したら十分に深入りしている?)、ひとことだけ誤解のないように言っておくと、日記猿人はあくまで池川氏がオーナーのリンク集である。池川氏と遠藤氏の無償のご尽力があればこそ、われわれ日記作者は、このリンク集で更新報告をさせていただき、読者に情報を伝えたり、他の日記作者と情報交換をすることができるのである。管理者は、日記作者の召使いでは決してない。日記を書くというだけのことであれば、法律に違反しない限りは、インターネット上でどんな内容の日記を書くことも自由であるし、相手の了承があれば別の日記へのリンクを主体にした日記を書くことも自由である。しかし、それを池川氏が所有・運用するリンク集に登録することは、全く別の次元の問題である。日記の内容自体ににケチをつけるとか、修正を求める権利は管理者にはないが、管理者が、自分のリンク集に加える日記として問題がないかどうかを独自の調査に基づいて判断するのは当然の権利であろう。(←ひとことでなくなってしまった。)

 さて、話題を元に戻すが、日記名の変更と言えば、「れっきい」さんの日記がどう変わるかも注目の的だ。こちらはまだ、決めかねているようだ。私は余計なお節介ながら、「れっきいの毎日が夏休み」がよいと思うのだが...。このほか、数ヶ月以内に名前の変更を迫られそうなものとしては、#1075の「1997年の日記」というのがある。
 おっと、めでたい話を忘れていた。「司法試験 受験日記」さん。立花さんの日記を通じて合格されたことを知った。日記作者で司法試験を目ざしている人たちの大きな励みになるだろう。司法試験に限らず、何かをめざす人がWeb上で日記をつけ、いろいろな励ましを受け、また励まし合って目標を達成する、こういう事例が増えることはまことに結構なことだと思う。
 もうひとつ、「フランケン怒りの鉄拳」さんが、「いかれた鉄瓶」を経て、「怒りの鉄拳」として復活されたことも、いきさつは、私にはどうもよくわからないが、とにかくめでたいことだ。
 なぜか、フランケンさんから連想してしまうのが、「奥様は現場監督(裏)」さんである。この日記は「やまみ」さん御本人が書いておられるのだから、「奥様は...」ではなく「わたしは...」というのが正しい表現ではないかと思うのだが....。しかし考えてみれば「奥さんのボヤキ」というも、奥さん御自身であるし、「しんつま」さんも御自身だ。私のような古い頭では、「奥さん」とか「つま」というのは男性が配偶者を呼ぶ時に使うものだと思ったが、最近の若い既婚女性は、自分自身を「奥さん」とか「つま」と名乗ることに抵抗を感じなくなっているのだろう。
 時間がなくなったので、明日に続く。
まごちゃんは、54歳77g。

<補足>この日記のアップの直前に、れっきいさんが新しい日記名「本日もれっきいでしょう」に変更された。なんでも龍成くんのアイデアらしい。そういえば「はせぴぃ」のルーツの「ハセピー」も龍成くんのアイデアだった。自分の才能の活かし方を謝れなければ誤らなければ、きっとネイミングの世界で出世することだろう。

971101(土)
[日記]10月の「日記界」をふりかえって(その3:登録からの経過日数と更新やランキングとの関係)
 今回は、日記猿人への登録から日数が経過することと、更新報告やランキング参加や得票との関係についてデータを公表したいと思う。
 対象とした日記は10/24までに登録された1059番までの日記である。それより新しい日記は、登録から未だ1週間しか経っていないため、新規登録と更新との判別が難しいと考え除外した。
 ここでは、1059番までの日記を番号によって4等分し、便宜上、 と呼ばせていただくことにした。これはあくまで戯れに名付けたものであり、じつは「新人」の中には、長老の方が再登録したり、日記界の「神様」と呼ばれていた方の日記も含まれているが、ここでは特別の配慮をしていないのでご容赦願いたい。また、詳しい情報がないのではっきりしたことは言えないが、「長老」と「ベテラン」は、おおむね本年2月頃までに登録された日記、「中堅」は、それ以降7月上旬までに登録された日記であろうと推定される。「長老」と「ベテラン」の境界がいつ頃になるのかは、まだ調査していないが、日記界を代表する、「BOWDO」が266番、「コンピュータ室運営日誌」が270番であるから、これらの方が登録された頃を調べればすぐにわかる。どなたか情報をいただければ幸いである。
 さて、このグラフのいちばん左のパネルから見ていただきたい。
 10/24の時点では、最新1059番までの日記で、管理者用を除いて現存している日記数は936本であった、これを上記の分類別に調べると、いちばん左のパネルのようになる。長老の現存率は70%強、ベテランで85%、それ以降で95%程度となっている。但し、現存しているということは、必ずしもアクティブに執筆されていることにはならない。登録者がパスワードを忘れて削除できないという日記もあるし、そもそも日記猿人に登録したこと自体を忘れてしまっておられる方もいるからだ。
 アクティブな執筆活動の有無を調べるため、10/31〜11/1の時点で、どのぐらいの日記が更新報告されているのかを調べたのが、左から2番目と3番目のグラフである。10/31の朝8時までの時点で、手動で更新報告をしている日記の数は、24時間以内が164本となっている。新作の200番目は前々日の21時頃であった。また、11/1の朝8時を起点とすると、新作の200番目は前日の15時すぎである。つまり、自動更新チェックまで含めると、24時間以内に更新された日記は200本を超えているが、手動更新報告者は現存日記全体の17-18%にすぎないことがわかる。グラフから明らかなように、いずれも、「新人」の方が、最もアクティブに更新をされているようだ。
 日記猿人への登録から時間が経つと、いろいろな理由で得票ランキングから離脱される方がおられる。グラフの真ん中のパネルの「投票参加」のところを見ると、長老では20%が離脱しており、確かに最も比率が高い。
 得票ランキングでは、「新人」の方が上「位」に上がりにくいという声を聞いたことがある。これを調べたのが、グラフの右側4つのパネルである。ここでは、10月の月間得票ランキングで10票以上獲得した日記と、60票以上獲得した日記の比率を示している。「A」は、現存日記数に対する比率、「B」はランキング参加者に対する比率である。月間10票以上では、長老や新人による比率の違いは顕著ではないが、60票以上(一日2票以上)の獲得者の比率は、右下がりになっており、ある程度はベテラン優位の傾向が出ていると言える。ランキングに参加して、1カ月に60票以上獲得する確率は、長老で19.3%、ベテランで16.3%、中堅で11.6%、新人で10.7%となっている。長く書き続ければ固定読者ができるということだろうか。
まごちゃんは、冬眠解除をする暇がなかったので、昨日のまま。

<補足>#268の戸川さんの日記を拝見したところ、上記の「長老」と「ベテラン」の境界は、昨年11月頃ではないかと推定できた。ということは、「長老」とは「1年以上前に日記を登録された方」と再定義してもよさそうである。