じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 昨日の日記で、4Kチューナー【シャープ 4S-C00AS1】の番組表のうちNHKの部分だけが突然表示されなくなったと記した。その後もいろいろ試してみたが復旧しなかったため、メーカーの有人チャットに相談してみた。チャットでは迅速かつ丁寧にいくつかの対処法を提示してくれたのだが、残念ながら復旧には至らず、修理依頼を勧められた【画像参照】。
 しかし、いくら安価で購入した型落ち品とはいえ、わずか2カ月で物理的な故障が起こるとは考えにくいので、最後の手段として、ソフトウェア更新を試してみたところ、見事にNHK-BS4Kを含めた番組表が復活した。
 ちなみに、9月末に購入した型落ち品のソフトウェアは<2019年2月13日公開:バージョン番号 BS1901231 >、更新された最新版は<BS1909122(2019年10月16日)>となっていた。何はともあれ、修理などに出さずに復旧できてよかったよかった。



2023年12月1日(金)




【連載】チコちゃんに叱られる! 「キャラクターは八百万の神様」は本当か?、「止まっているエスカレーター」

 昨日に続いて、11月17日(金)に初回放送された表記の番組についての感想・考察。本日は、
  1. 人間の赤ちゃんが産まれてすぐ歩けないのはなぜ?
  2. 日本にキャラクターがいっぱいいるのはなぜ?
  3. 止まっているエスカレーターをのぼると変な感じがするのはなぜ?
という3つの話題のうち、2.の続きと3.について考察する。

 まず、日本にキャラクターが多いことについてだが、放送では、
  • 街角インタビューで、フランス人、スペイン人、アメリカ人が自国に比べて日本にはキャラクターが多いと回答していた。
  • 2022年2月6日配信の日経電子版によれば、全国地域キャラクターの数は1500体以上
  • 子どもたちに人気のお店に行ってもキャラクターがたくさん並んでいる。
といった例が挙げられていたが、これだけでは根拠にならないように思う。

 そもそも「日本にはキャラクターが多い」と論じるには「キャラクター」の範囲をしっかりと定義する必要があるが、ウィキペディアに記されているように、その範囲は多岐にわたっている。要約・抜粋させていただくと、
  1. キャラクター(語源:character)は、小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲーム、 広告などのフィクションに登場する人物や動物など(登場人物)、あるいはそれらの性格や性質のこと。また、その特徴を通じて、読者、視聴者、消費者に一定のイメージを与え、かつ、商品や企業などに対する誘引効果を高めるものの総体。
  2. 人間や動物のような生物や、生物を模したロボットに限らず、さまざまな道具、時には生物の器官、星や元素、さらには感情や自然、国家など、ありとあらゆる概念は擬人化とデフォルメを介することでキャラクター化されうる。略してキャラとも言われる。
  3. 「キャラクター」の語源である英語の「character」という語の本来の意味は、「特徴」「性質」などであり、元の語源はギリシャ語で「刻まれた印、記号」。その意味での用例として、似た性質を持つ人物が社会集団に複数いる状態を『キャラがかぶる』と表現することがある。また、人物を意味する場合も本来は架空の登場人物とは限らず、日本語でもCMキャラクターなどは実在の人物をさす用例も多い。
  4. 日本語において、架空の登場人物を指す「キャラクター」という言葉は、1950年代にディズニーのアニメーション映画の契約書にあった「fanciful character」を「空想的キャラクター」と訳した際に誕生したとされている。
 このほか、関連する概念としてマスコット・キャラクターがある。ウィキペディアでは「団体、商品、催事などの認知度を高める手段として、マスコットキャラクターがよく用いられる。略してキャラクターとも呼ばれる。」と説明されている。また、マスコットの項目を要約・抜粋させていただくと以下のようになる。
  1. マスコット(フランス語:mascotte、英語:mascot)とは、「人々に幸運をもたらすと考えられている人・動物・もの」のこと。
  2. 身辺に置いて大切にする人形や、何らかの団体(グループ)のシンボルとする動物などである。
  3. マスコットは「人」や「動物」だけとは限らず、「植物」であったり、「色」であったりすることもある。
  4. 企業のブランドと関連した企業マスコットや、地方自治体等のゆるキャラなどがある。マスコットを設けることで、顧客から親しみやすくなり、ファンを獲得することが容易になる。
  5. 2000年代以降、日本で公共団体のマスコットが急激に増加した。批評家の東浩紀は2000年に「政府や社会、いわゆる大文字の制度の存在感がどんどん衰える、というのはポストモダン化の必然的な過程なわけですが、九〇年代の日本におけるキャラクター文化の背景にはそういう社会的要因があると思います。今後は、各省庁のマスコットキャラが続々と出てくることになるんじゃないですか(笑)」と予想した。熊本県の『くまモン』はその最大の成功例である。

 以上から推察できるように、マスコット・キャラクターは日本独自の文化ではなく、ディズニーランドのミッキーマウスやドナルドダック、あるいはテディベアのような縫いぐるみを含めて世界各地に共通した人気要因があり、日本のキャラだけを切り離して八百万の神様や妖怪と結びつけるのは、コジツケではないかと思わざるを得ない。
 ちなみに、日本では「くまモン」、「ひこにゃん」、「せんとくん」などのご当地キャラが知られているが、そうした人気キャラはごく一部に過ぎない。公共団体が競って独自のキャラを制定したことと、基本的に著作物ではないとされていることから、おびただしい数の種類にのぼっているが、大部分は廃れてしまっているのではないだろうか。そう言えば、私が毎日ウォーキングに通っている半田山植物園でもはんだちゃんというキャラクターが制定されているが、殆ど見かけたことはないし、何かのイベントに着ぐるみが登場したこともない。

 あと、放送では、「日本ではあらゆるものに魂が宿り、神様だと信じられている。日本人は八百万の神様を信じていたのでキャラクターを受け入れやすい。」と説明されていたが、我々は、別段、着ぐるみの中に魂が宿っていると思ってマスコット・キャラに接しているわけではない。着ぐるみの中には人間が入っていてそれなりの動きやポーズをとることでキャラを演じていると了解した上で接しているのである。これは、アニメ、人形劇、着ぐるみのサンタクロースでも同様である。小さな子どもは別として、魂が乗り移ったと思って接している人はまずおるまい。【長年一緒に暮らしていた縫いぐるみなどには特別の愛着が生じることがあるが、その愛着が「魂」を前提としたものなのか、それとも「魂」とは独立した無生物への愛着なのかは何とも言えない。例えば、風景に懐かしさを感じたからといってその風景に魂が宿っていると思っていることにはならない。】

 なお、マスコット・キャラクターに関しては、過去日記に以下のような記事がある。




 最後の3.の「止まっているエスカレーター」については、放送では「考えない脳があるから」が正解であると説明された。なおチコちゃんによれば、今は、止まっているエスカレーターは安全のためのぼってはいけないことになっているらしい。
 五味裕章さん(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)によれば、止まっているエスカレーターをのぼると変な感じがする現象は専門的には「壊れたエスカレーター現象(Broken Escalator Phenomenon)」と呼ばれる。身体運動は大きく言うと2つの脳によってコントロールされており、
  • 考える脳:意識的に状況を判断。
  • 考えない脳:基本的な運動を無意識的にコントロール
となっている。止まっているエスカレーターを歩くとき、考える脳がエスカレーターが止まっていることを認識するが考えない脳がエスカレーターだから重心を前に倒そうと体を勝手に動かすことで変な風に体が動いてしまう。予想した階段の高さと実際の高さが違うため足がガクッと空振りする。止まっているエスカレーターでも違和感がない人は、止まっているエスカレーターの動きをよく学習している人たち。ヨーロッパでは止まっているエスカレーターが多いのでのぼるのに慣れると違和感がなくなるという。五味さんの研究によればエスカレーターと同じ高さの階段と手すりとステップを隠したエスカレーターをのぼった場合は違和感は生じない。要するに違和感の有無はエスカレーターに見えるか見えないかに影響される。
 放送ではさらに、VRゴーグルを使った実験が紹介された。。人の歩きに連動するチェック柄の壁の速度を速い映像に変えると歩行速度は遅くなり、歩く距離も短くなる。遅い映像を見ると歩行速度が速くなる。いつもと違う風景の流れを見ると考えない脳が歩行速度を調整するため。考えない脳があるからこそ人はスムーズに体を動かし生活することができると説明された。

 以上の説明は一般向けの分かりやすい内容であったが、「考える」と「考えない」の違い、あるいは「意識的」と「無意識的」の違いについては特段の説明はなされていなかった。言語行動が介在する場合を「考える」と呼ぶのか、あるいは「エスカレーターの動きをよく学習している」とはどういうことを言うのかはよく分からなかった。いずれにせよ、じっさいに「考える脳」と「考える脳」という2つの脳が存在しているわけではなく、行動の機制にどういう環境要因や経験要因が関与しているのかという用語体系を用いないと、本当に行動を説明したことにはならないように思われた。