じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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気象庁は、6月7日(水)、四国、中国、近畿、東海、関東甲信地方が「梅雨入りしたとみられる」と発表した。この日の岡山は午前5時台から20時台まで雨が降り続き、合計雨量は48.5ミリとなった。岡山の6月の雨量の平年値は171.5ミリであり、この1日で一ヶ月分の28%の雨が降ったことになる。

2017年6月7日(水)


【思ったこと】
170607(水)ボーム『行動主義を理解する』(25)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(16)私的事象(6)

 6月6日に続いて、

ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.

の話題。

 翻訳書76頁以降では、自己知識について巨視的行動主義の独自の考え方が表明されている。【ゴシック体は下線に変更。英語は第3版。】
ラクリンもスキナーと同じように、自己知識は、ある種の行動として理解できるという一般的な見解を持っている。しかし彼は、行為をより拡張された活動の部分と見ているので、自己知識における私的な行為の役割をほとんど重視しない。ラクリンにとって、コマドリを見るというのは、ひとつの活動であり、それは店に向かって歩いて出かけるというのと同じであるのだろう。店に向かって歩いて行く活動には、ある方角に向かって歩く、店に向かって歩いて行くことを語る、その後で購入したものを家に持って帰る、というような行動が含まれる。それと同じように、コマドリを見るという活動には、コマドリがいる方向を見る、コマドリを指で指し示す、コマドリについて語る、コマドリがいなくなったときにそれについて語るといった行動が含まれる。コマドリを見る行動には、「見てごらん。あそこにコマドリがいるよ」「コマドリが見える」「コマドリが見える?」と他の誰かから尋ねられて「見える」と答えるような行動が含まれる。巨視的な見方からすれば、これらは私的事象の報告ではない。それらは、コマドリを見るという活動(公的な活動)の単なる部分にすぎない。
Rachlin shares with Skinner the general view that self-knowledge can be understood as a type of behavior, but because he regards actions as parts of more extended activities, he assigns private actions a much lesser role in self-knowledge. To Rachlin, seeing a robin is an activity, just as walking to the store might be. Just as walking to the store includes such behavior as walking in a certain direction, talking about walking to the store, and afterwards bringing home a purchase, so seeing a robin includes such behavior as looking in its direction, pointing at it, talking about it, and remarking when it is gone. Some of the behavior included in seeing a robin might be saying, "Look, there's a robin" or "I see a robin" or responding "yes" when someone else asks whether I see the robin. In the molar view, these are not reports on private events; they are simply parts of the (public) activity seeing a robin.
 このような巨視的な考え方については、納得できる部分と疑問に思う部分がある。まず、いくつかの行動が相互に連携しながら、まとまりを持った指向性のある行動として機能している点はその通りだと思う。しかし、前にも述べたように、行動というのは必ずしも1つの指向性だけで定義できるものではない。行き当たりばったりの行動もあれば、途中で気が変わって別の行動に切り替わることもある。上記の例で言えば、「店に向かって歩いて行く」という行動かと思ったら、途中で知り合いに出会って喫茶店に入るかもしれないし、バスに乗って全く別の場所に行き先を変更するかもしれない。コマドリを見る行動の場合にも、コマドリだけではなく、野生動物全体を観察している場合もあるし、植物を眺めていてたまたまコマドリが現れた場合もある。こうして考えると、公的な活動の一部として私的出来事を捉えることには、少々無理があるのではないかという気がする。

 巨視的な視点が大切であることについては私自身、こちらで論じた通りであるが、行動の単位はもう少し微視的に捉えるべきであろうと思っている。基本的には、独立して強化可能な反応クラスは、別々の行動であると考えるべきであろう。「店に向かって歩く」の例で言えば、「歩く」というのは「前に進む」という機能によって定義されるべきである。この機能的定義では「車椅子で移動する」、「自転車で移動する」もまとまった1つの行動として定義しうる。いっぽう、健康増進ウォーキングとしての「歩く」は、「自転車に乗る」とは別の行動となる。行動というのは、一通りの基準で定義分類できるものではない。2016年8月25日の日記にも述べたように、
もともと反応(行動)というのは連続的なものであって、固有の固定的な単位に分割されているわけではない。研究者は、形態的な類似性、または、機能的に(レバー押し、キーつつきなど)にいくつかの行動単位を定めた上で実験的分析を行う。そのようにして定めた反応は1つの反応クラスであり量的分析の研究対象になりうるが、それが唯一無二の分類というわけではない。というか、実験的行動分析で対象とする反応(行動)は基づいて彫刻のように実験者が「削り出した」反応であり、機能的に定義されている。この視点から、反応クラスや般化オペラントを捉え直して行く必要がある


 次回に続く。