じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 文学部周辺に再びアナグマが出現した。6月3日に続いてこれで2回目。タヌキ汁にされないことを願う。

2017年6月6日(火)


【思ったこと】
170606(火)ボーム『行動主義を理解する』(24)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(15)私的事象(5)

 6月4日に続いて、

ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.

の話題。

 翻訳書74頁以降では、私的事象(私的出来事)に関連して、「自己知識と意識」の話題が取り上げられている。

 まずは、人以外の動物にも意識があるのかないのかという問題。もっとも、
  • 人には意識がある。
  • 人は、意識的に行動する場合と、無意識に行動する場合がある。
という前提自体、疑ってみる必要がありそうだ。これらの前提を受け入れるか、排除するかという問題ではなく、日常会話で「意識」という言葉がどういう時に使われているのか、何が「意識的」で何が「無意識的」と区別できるのか、をはっきりさせる必要がある。この点については、本書でも、
人が意識的であるとか、あるいは行為が意識的であるということが、どのような意味であるのかについては意見が異なる。イヌやコウモリが意識しているかどうかについての議論はいまだに続いている。議論に収拾がつかない場合、実用主義者としての科学者は、その理由が、解答にあるのではなく、問題そのものにあるのではないかと疑い始める。


 「意識的」と「無意識的」の区別については、本書に記されている通り、「人々が自分の行動を語ることができる場合、人々は、その行動を意識しているとか、その行動について意識的であると考えられる」というのは重要なポイントとなる。いっぽう、その人の行動の大半がルール支配行動として行われている場合、ルールとの一致を確認せずに行われた行動(確認行動を言語報告できないような場合)は、「無意識にやってしまった」と言われる。

 自分の行動に関わる言語報告は「自己知識」とも呼ばれる。幼少時に、さまざまな体験を他者に語ることが社会的に強化されることによって形成される。最初は、他者と一緒に確認できるような外的な事象(=公的な事象)について語ることが学習され、しだいに、その人自身だけが体験するような事象を報告(タクト)するようになる。「いま、ここ」という目前の環境刺激と同時に、「いま、ここ」でない様々な言語反応が生じることで、「いま、ここ」とは異なる「自己の世界」という特殊な感覚が生じるようになる。これが、自分という特別の存在の感覚につながる。この考え方に基づけば、さまざまな体験を他者に語ることができない人や動物には、「自己知識」は存在しないし、自己という存在を感じることもできない。というか、「いま、ここ」がもたらす環境刺激と異なる刺激を受容しても、「何か変やなあ、別のものがあるのだろうか」という程度の「妙な感覚」が生じるだけであって、それが何なのかを報告するすべが無ければ、自己に結びつけることはできないだろう。

 このあたりまでの考え方は、徹底的行動主義者の共通した認識であり、特に異論は無かろうと思う。しかし、本書では、巨視的行動主義の立場からもう少し踏み込んだ議論が行われている。その部分については、いくつか異論があるように思う。

 次回に続く。